iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

[ ゲストブック ]
こちらはゲストブックの過去ログです。閲覧のみ可能です。

編集や削除のご要望がありましたら個別にやります。遠慮なくおっしゃって下さい。


No.1622) (no name)(Mon Jun 6 16:19:59 2005)
 ネット右翼の話はみんなスルーするのな。
No.1625) (no name)(Mon Jun 6 18:34:07 2005)
と言うか前回の信仰について、でずいぶん人が減った悪寒。
人が減れば反応も減るよねー。
No.1626) (no name)(Mon Jun 6 19:17:07 2005)
元通りに戻っただけさ。
あの反応の多さが異常だった。
No.1630) (no name)(Mon Jun 6 23:50:40 2005)
みんなそろそろ、iwatamとの言葉遊びにも飽きてきたところかな。
このゲストブック、好きなことを書かせてもらえるけど反応薄いしね。
というか、iwatamのレス自体が煽りと釣りで構成されてるし^^;。
マジレスする人にとってはつらそうな掲示板だよなぁ。
No.1631) (no name)(Tue Jun 7 00:05:07 2005)
スルーつか、自己紹介じゃないのか、あれ。
iwatam氏自身のことを堂々とコラムに書かれてもねぇ。
No.1632) (no name)(Tue Jun 7 00:11:51 2005)
まあ一部のサンプルを見て全体を語ってるんだろうなあ、で終了だろうし>ネット右翼

ほんと、Iwatam氏自身に当てはまるよなあ。

No.1582) 山吹次郎丸(Sun Jun 5 13:12:49 2005)
iwatamさん。
あなたはヤバい宗教にでも嵌っているのではないですか?
全てが順調ではないにせよ、まともに生きていると信じている自分にとってみれば、神に救われたいと思う時点で、その人はかなりテンパってます。
神が父親なら、パパにすがるまえにやるべきことがあるでしょう?
神やドラッグや消費者金融にすがる前に、上司と友人と職業相談所と市役所の相談窓口と弁護士と家庭裁判所とカウンセラーに相談しましょう。
巷で話題の電車マンのように2chに相談するのもいいかもね。
自分に言わせれば、救いは欲しいけど、それは幸運と努力と人の良心と自らの明るい方向を向こうとする心と不思議な縁のなせるわざであって、神ではない。
神は公正であり、したがって手出し無用なのだ。
サッカー選手が審判に救いを見出すなど、聞いたことがない。
『どうすれば救われるか』を真摯に考えている人に対し、『なにもする必要はない。あなたはもう救われている。神を信じなさい』と言われたら、こいつサタンの手先だな、としか思えないのですが。
神にすがるのは死んだ後で十分です。生きてる間は人間同士でなんとかしましょう。
大体、神ってたくさんいますけど、どの神のことを言っているんです?
好色でドジで恐妻家なゼウスなんて、私は好きですねえ。
ところで、日本には、『信じるものは救われる』より、もっといい格言がありますよ?
『人事を尽くして天命を待つ』
No.1589) あなたは救いを勘違いしておられます iwatam(Sun Jun 5 14:51:10 2005)
「どの神のことを言っているんですか?」という質問から、あなたの言う「神」が、私の言う「神」と異なっていることがわかります。
あなたの言うことはその通りで、私はそう言ったのです。それが「神の救い」なのです。きっと「救い」という言葉を違う意味でとったからでしょう。
サッカー選手は、サッカーというゲームが公正に行われることを望みます。ズルをして勝っても面白くもなんともありません。だから、審判が公正であることが「救い」なのです。
「救い」というのは、現実の生活の具体的な状況がどうにかなることを意味してはいません。ですから、「神にすがる」というのは間違いです。「すがる」ということ自体、神を疑っています。「神にすがる必要はない」と考えることが、本当の信仰です。
最後に。「信じるものは救われる」というのは、「人事を尽くして天命を待つ」とほぼ同じことを言っています。
No.1591) (no name)(Sun Jun 5 14:56:24 2005)
>「どの神のことを言っているんですか?」という質問から、あなたの言う「神」が、私の言う「神」と異なっていることがわかります。
あなたの言う「神」と山吹次郎丸氏の言う「神」が異なっているとしても、その違いを説明しなければ質問に答えたことにはならんのだが。
あなたの言う「神」はどれだけの人が同じ認識をもっているのかな?
あなたにしか通じない「神」であるならば、それを一般化するのは間違っている。
あなたが「これこそが本当の信仰である」と考えるのは問題ないが、それを以って他者の意見を否定するのはただの独善だよ。
まぁ循環論法を問題ないという人だから論理的な思考ができるとは思えないけどね。
No.1599) (no name)(Sun Jun 5 16:28:42 2005)
あいやMr.noName、信仰する神は答えたくない場合は答えを強要するべきではありません。
イスラム教徒に対して、スンナ派かシーア派かを尋ねてはいけないのと同様です(彼らにとって、それを公言することは死を招きかねないそうです)。
Mr.noNameのおっしゃることは、議論の理を求める姿勢としてもっともだと思いますが、iwatamさんの返答は、充分に私の疑問に答えるもので、不足はありません。この際、神の名は重要な論点ではないのです。
おそらく、iwatamさんと私・次郎丸とで意見が(というか、生き方が)異なるのは、物事に対する姿勢ではなく、その先なのでしょう。
iwatamさんは、尽力の先にある理不尽な結末や、人力の及ばぬ領域での不幸へ無力感、そういった納得できないもろもろに対する救いを、全てを神の手の内と認識することで見出しておられるのでしょう。
対して次郎丸は、それはそれ、どうにもならぬ事、と考えて受け入れるべく努力しています。
私にとって『人事を尽くして天命を待つ』の意は、『信じるものは救われる』ではなく『あとは野となれ山となれ』なのです。
人事を尽くした者にとって、人事を尽くしたそのこと自体が、非情な現実へのせめてもの救いとなるのであって、神がどこかでバランスをとってくださる必要はどこにもないのです。
どのような形であれ、人生の結末は10中8・9、悲惨な死。野垂れ死に。そうあることを受け入れ、自身が根本的に間違っていて人生が全く無意味に終わることを覚悟する。
どこかに正しい事というにはあるかもしれないし、それを探そうともするが、それを神に求めることはしない。それが私の『無信仰』です。(言うまでもありませんが、無信仰と無神論者は違います。無信仰は、神様がいたとしても『神は神、俺は俺』といいうる事です)
独り山に登るとき、独り海に向かうとき、自分の小ささと、小さな自分を生かしておいてくれる世界の大いなる存在感を感じることが出来ます。
が、それもまた自身の感覚、自身の判断であり、全くの間違い勘違いである可能性を否定するのは、次郎丸としては不誠実にあたるのです。
 信仰をもっている方々は、どうもこの辺の『信じる対象の確実さは、信じる自分の判断力に依拠する』という法則をわきまえず、自分の信仰の対象が侮辱されると、侮辱されているのは神ではなく自分の判断だというのに、神が侮辱されたと思ってブチきれる傾向があるようなのですが。次郎丸はこの辺を『狂信者』とひそかに呼んでいます。
無信仰は一生、自分は間違えいるのではないか、いや、おそらく間違えているのだろう、という認識と付き合い続けるのです。それは、虚無であることを恐れるあまり、判断力の一部を信仰に預けてしまう事を不誠実と思うが故です。
他者の作品からの引用で気が引けますが、ひとつ紹介させていただきます。
「…少年よ。…荒野に独り立つことを恐れるな」(『錬金術師ゲンドウ』より)
No.1606) iwatam(Sun Jun 5 22:56:37 2005)
あなたの言い方で言えば、私は人生の結末は10中8・9が野垂れ死にであるとは思っていません。10中10までが野垂れ死にであると思っています。「人生がまったく無意味に終わるかもしれない」ではなく、「すべての人生はまったく無意味である」ことを受け入れます。すると、今度は「無意味」という言葉自体が無意味になります。ここで、我々が普段「意味」だと思っているものとはまったく違った別の「意味」を定義できるわけです。神を信じるということは、人間が理解できる範囲を超えた意味を認めるということ、言い換えれば、真の意味は人間には理解できないのだとすることです。
神様のとる「バランス」は、人間には完全に理解することができません。神様が何を「バランス」と呼ぶかがわからないからです。だから、それを気にする必要はありません。「神は神、俺は俺」でいいのです。
こうしたことを受け入れれば、「悲惨な死」「覚悟」と気負う必要がなくなります。あなたの言うことが間違っているという意味ではありません。死を悲惨に思う必要もなければ、当たり前に起きることに対して覚悟する必要もないということです。「自身の判断が常に間違いである可能性がある」というのも、当たり前のことなのでわざわざ言及する必要はなくなります。
しかし、あなたと一つ違うのは、上記のことを「正しい」と受け入れているということです。無信仰では、「判断力の一部を信仰に預けてしまうのは不誠実である」という思いすら、間違っている可能性があります。
そうなると、判断力の一部を信仰に預けてしまうべきだという狂信者の方が正しいのではないかと常に思い続けることになります。だからこそ、狂信者に恐怖を覚えるのです。それは、狂信者の言うことを否定できないからです。
信仰を持つ人は、信仰とは判断力の一部を預けるようなものではないことを知っています。そして、判断力は誰にも預けることができないということを「正しい」とします。だからこそ、狂信者には堂々と「お前は間違っている」と言えますし、無信仰者には「これだけは疑う必要はないんだ」と言えます。
No.1609) ひとつだけ (no name)(Sun Jun 5 23:27:30 2005)
>そうなると、判断力の一部を信仰に預けてしまうべきだという狂信者の方が正しいのではないかと常に思い続けることになります。だからこそ、狂信者に恐怖を覚えるのです。それは、狂信者の言うことを否定できないからです。
違うよ。
狂信者に恐怖を覚えるのは、狂信者を理解できないが故にだ。
人間は理解できないものに恐怖する。それは例を挙げるまでもないだろう。
そして狂信者の言うことを否定できないのは、あなたがNo.1596で「どうしようもないバカの誤解を解くのは無駄な努力」と言っているのと同じ理屈だ。
狂信者が怖いのはけして「狂信者が正しいかもしれない」からではない。
No.1628) いや、ホント長くて申し訳ない 山吹次郎丸(Mon Jun 6 20:08:10 2005)
なるほど。いまだ消化不良な部分はありますが、いつまでも沈黙しているのも失礼にあたると思い、返信します。議論の白熱するBBSでは、沈黙もひとつの意思表示ととられてしまいますので。まあ、その誤解を受けることをおそれていては、iwatamさんが以前のコラムでとりあげらた話のように強迫観念に追われて気疲れしてしまいますが。
さて。
『神を信じるということは、人間が理解できる範囲を超えた意味を認めるということ、言い換えれば、真の意味は人間には理解できないのだとすることです。』
という一文、無信仰たる私にもよくわかります。というか、宇宙の果てに思いをめぐらす物理学者はだれしも人間の理解力の稚拙を感じていることでしょう。『人間の定義』に踏み入って論じたいところですが、それは自分の中でも確たるビジョンがないところなので、いまだ議論には耐えないものとして沈黙します。
だいぶ深く立ち入ってうかがうこともできましたし、そこで提示されたiwatamさんの信仰観も納得のいくものでした。不誠実な盲信とは程遠いあり方とお見受けしましたので、私としては、私のような無信仰な輩とも共存しうるものと信じます。
人間、その対象が神でないにせよ、どのみちどこかで何かを盲目的に信じているものだと思いますので(というか、そうでもなければどんな刹那主義者でもやってられないと思いますので)、これ以上信仰の問題には踏み込むのをやめにします。たとえ根拠がなくとも、家族とはまた無事に会えると疑うことなく家を出ますし、明日に核ミサイルが降ってこないとも限らないといっても、慌てて穴を掘り始める人をみればたわけと思います。どこかで盲信がなければ、それは一種の狂者なのだろうとおもいます。
最後に、私にとって神と出会ったという人、また神を信じている人がどのように見えるかという話をさせていただけば、それは「私はUFOを見た」という人とは区別されるべきものと考えています。「UFOを見た」という人は、その体験に関して、真か偽かが問題となります。
しかし、神と出会った人というのは、そうではないのではないかと、無信仰たる次郎丸は考えます。実のところ、「見えている」事と「それを認識する」事とは違います。『群盲象を撫でる』のことわざどおり、たとえ触れていても、その本質が理解できないことというのは良くあることです。人間が、自分が素粒子で出来ていることを知るのにどれほど時間がかかったかを思えば、「まだまだ」でしょう。おそらく、神に出会った人というのはある時「それが神である」事に気づいた人なのだろう、と次郎丸は考えています。
一人の盲人が象を撫でまわしつづけて、ある時それが象だと気づくように、ある人が何十年と人生を過ごしつづけて、ある日ある瞬間にそこに神を実感するのだろうと考えています。その切欠は「啓示」と呼ばれるかも知れず、「悟り」と呼ばれるかもしれません。その意味で、『神をなぜ信じられるのか説明しろ』という事は、『あんたのこれまでの人生をことごとく言葉で述べきって、更にプラスアルファを示せ』というくらい無茶なことなのだろうな、とは思います。まあ、無信仰な次郎丸の想像ではありますが。そんなわけで、信仰の理由は(ひっじょーに興味はありますが)聞かないことにしているのです。
ただ、ひとつ言わせていただくなら(長くなって申し訳ない)、私のような無信仰者が最もうさんくさく思うのは「真の」とか「本当の」という文句なのです。なんだその「真の」って?と反射的に感じ、考えれば考えるほど胡散臭くなるのです。というのも、私は先ほど「人は誰しも盲信なしではやってられない」と述べたように、自分の理性がどこか盲信の上に成り立っていると感じています。そこに自信マンマンのキリスト者がやってきて「あなたの本当の幸福について」とかぶちあげると、「うわー!うさんくっせー!なんでそんなに自信マンマンなの?!鏡見ろよ」と思ってしまうわけです。私は自分の土台がいいかげんなものであり、人間みんなそうだと思っているので、「自分は真実を知っている」というツラを見ると「ウボァー。遠くで幸せになりたまえ。シッシッ」という気になるのですね。
最初の投稿の時は、いささかならず刺激的な表現を使ってしまったことを反省します。申し訳ありませんでした。ではまた。
No.1635) iwatam(Tue Jun 7 02:40:56 2005)
まず、「神をなぜ信じられるのか説明しろ」というのは、そもそも言葉の矛盾であることを指摘しておきます。説明のできないことを正しいとすることを「信じる」というのですから。だから、そういう質問をする限り「あなたは信仰というものの本質をわかっていない」と言われるでしょう。「無茶」なのではなく「原理的に不可能」なのです。
ただ、多くの人は自分の体験に即して何かを語ってくれるでしょう。それは、私もあなたも同じ人間なのだから、私と同じようなことをきっとあなたも思っているはずだと思っているからです。色々とヒントを出せば「ああ、あれのことか」とわかってもらえると思うから、あれこれ語るのです。
これは「説明」ではありません。だから、相手がわかる努力をしないことには、思いは伝わりません。例えて言えば、ジェスチャーゲームのようなものです。相手がジェスチャーで答えを伝えようとしている時、確実性や普遍性を求めていると答えはわかりません。相手が何を表現しているかを必死になって考えていると、あるとき突然ピンときます。これがコミュニケーションです。理屈ではないのです。
上で述べたようなコミュニケーションは、相手が聞こうと思っていない限り伝えることができません。だから、こうした話は「聞きたくないならば聞かない」「聞きたくない人には聞かせない」のが正しい態度です。これをわかっていない人がたまにいて、問題を起こします。
「真の」とか「本当の」という言葉を嫌っておられるようですが、「真の」がどこにもなければ、それは無意味になってしまいます。「すべてのものは完璧ではない」というのはその通りですが、逆に「すべてのものには真実へ至るヒントが隠されている」と見てはいかがでしょうか。「真の」を「一片の真実を含んでいる」と読むなら、うさん臭さは消えるでしょう。
人間は、自分が見たことや感じたことは、特に理由がない限り本当のこととみなします。もちろんそれは時には間違っていることもありますが、それを否定してはすべてのものの意味がなくなってしまうからです。
例えば、山歩きに行って、遠くの方に鹿がいるのを見つけたとしましょう。見つけた人は「あ、鹿がいた」と言うでしょう。これに対して「なぜ鹿がいると言えるのか」とか「なんで自信満々でそんなことを言えるわけ?うさんくせー。鹿なんているわけないじゃん」と言っても意味がありません。実際にいたのを見たのですから。相手は「だって本当にいたんだよ!」としか言えません。そして、もしそれを信じて目を向ければ、あなたにも鹿が見えるかもしれません。しかし、目を向けなければ、永遠に見えないままです。
No.1608) 追伸 iwatam(Sun Jun 5 23:20:41 2005)
神様は一人しかいないので、「どの神か」という質問は愚問です。神様は一人しかいないため、区別する必要はなく、従って名前もついていません。
「どの神か」という質問をすること自体、「神は唯一である」という根本理念を否定したことになります。
No.1610) おいおい (no name)(Sun Jun 5 23:41:26 2005)
じゃあこれはなんなんだ?
>「どの神のことを言っているんですか?」という質問から、あなたの言う「神」が、私の言う「神」と異なっていることがわかります。
山吹次郎丸氏の言う「神」とiwatam氏の言う「神」が異なっていて、なおかつ「神は一人」だって?
可能性として一番妥当なのは「どちらかの神は神ではない」だろうが、どちらの神が本当の「神」なんだい?
>「どの神か」という質問をすること自体、「神は唯一である」という根本理念を否定したことになります。
そして基本的なことを聞くが、何故「神は唯一」なんだい?
神は一人だって誰が決めたの?
No.1611) (no name)(Mon Jun 6 00:17:29 2005)
お前が馬鹿だということはよくわかった。
No.1612) (no name)(Mon Jun 6 00:57:26 2005)
唯一神iwatamイエスが正しいのです
反論する人間は神の存在に気づけないかわいそうな人達なのです
そのような物たちはこの唯一神iwatamイエスが天国に放り込むべき者達なのです。

iwatam氏は既に凡人には一生理解不能な真理に到達した最後の預言者なのです。
凡人を相手にするのはバカバカしく、幼稚な理論の展開と言葉遊びには辟易しています。

・・・まぁ・・・実際氏は自分なりの真理らしきものに到達してるようなので今更凡人が何言っても無駄だよね。
No.1614) senri(Mon Jun 6 01:34:38 2005)
それは貴方が自分で考えて出した結論ですか?
誰かの話を鵜呑みにして、それをそのまま言っていませんか。
No.1558) 神が存在するとして senri(Sat Jun 4 02:20:01 2005)
はじめまして。
コラムを読みました。
そこでひとつ、質問させてください。
「全知全能の神は自分でも持ち上げられない大きな岩を作ることができるか?」
No.1559) 神波(Sat Jun 4 04:01:31 2005)
持ち上げてしまうと全知全能を失う岩を作る。
多分全知全能のアイツもこれは持ち上げられないでしょう。
・・・とかダメですかw
No.1570) (no name)(Sat Jun 4 19:50:19 2005)
持ち上げられない岩がある時点で全知全能ではないわな。

銀英伝で似たのがあったな……

No.1578) 山吹次郎丸(Sun Jun 5 12:08:42 2005)
解答は『できる』
作った時点で全能ではなくなるにせよ、作る前は全能である以上、作れるに決まっている。
で、作ってほしいんですか?
No.1562) (no name)(Sat Jun 4 07:07:51 2005)
No.1563) 又吉(Sat Jun 4 07:32:15 2005)
ここにいる者達に告ぐ。

iwatam氏の言う事は既に証明されている。それは自明な事である。
senri・神波・風花らは腹を切って死ぬべきだ。
 また、彼らはただ死んで終わるものではない。
 唯一神又吉イエスが地獄の火の中に投げ込む者達だ。
 彼らの支持者も同様だ。
 理由は岩を持ち上げるなら自分が持ち上げるべきだからだ。
 詳しい理由はコラムで熟知すべし。」

No.1566) 神波(Sat Jun 4 08:15:07 2005)
むしろ全知全能の神キターーーーーーー!!w
しかも全知全能のうちでもかなりヤバい方面の神降臨ペタワロスww
No.1572) senri(Sat Jun 4 23:31:50 2005)
又吉さん。
貴方が何を言いたいのかさっぱりわかりません。
何か勘違いをしていませんか。
No.1574) 名無し(Sun Jun 5 01:20:23 2005)
「又吉」でググれ
No.1579) iwatam(Sun Jun 5 12:28:40 2005)
全知全能の神はそんな無意味なことはしません。
No.1588) (no name)(Sun Jun 5 14:26:51 2005)
何故あなたが神の行動を規定できるのだね?
我々には無意味に思えることでも神にとっては意味があるかもしれないだろう。
あなたは神よりも上位の存在なのか?
No.1594) 規定しているわけではありません iwatam(Sun Jun 5 15:33:27 2005)
単に、神様ならそう思うだろうと言っているだけです。
それ以上に確実なことを聞きたければ、神様に直接聞いてください。
No.1597) (no name)(Sun Jun 5 16:00:10 2005)
>単に、神様ならそう思うだろうと言っているだけです。
お得意の後出しじゃんけんですか?
>全知全能の神はそんな無意味なことはしません。
あなたはこのように断言してるんだよ。
あとから言い訳するくらいなら、最初から考えて発言することだね。
これはあなたのコラムにも言えることだけどね。
No.1600) (no name)(Sun Jun 5 17:43:08 2005)
人間に、神の出来る出来ないがわかった時点で、それは神ではなくなるって。それこそ神にお伺いを立てて回答を得ない限りわかるわけがない。質問自体が無意味だよ。
No.1605) (no name)(Sun Jun 5 22:05:09 2005)
それはどうかと思うよ。
仮に神を「全知全能」だとしたら、人間が思いつく程度のことはできなければならない。でなければ「全知全能」とは言えない。
神を「全知全能ではない」と仮定すれば、お伺いを立てなければわからないけどね。
No.1613) senri(Mon Jun 6 01:09:12 2005)
私は神にではなく、貴方に尋ねているのです。
貴方の答えを聞かせてください。

それからもうひとつ。
私が投げかけたこの問題を、
貴方は今までに一度も誰からも尋ねられたことがなかった?
もしくは、一度も答えがあると考えたことがなかった?

No.1615) iwatam(Mon Jun 6 01:47:13 2005)
私の答えは先に書いたように、「本当のことは直接神様に聞いてみないとわかりませんが、問い自体が無意味だと思いますよ」という回答です。なぜなら、神様はそんなことは「しない」だろうからです。
私の周りには、本気であんな質問に意味があると思っている人はいないので、まだ誰も尋ねた人はいませんね。
No.1624) (no name)(Mon Jun 6 16:53:06 2005)
じゃ尋ねてみたら?
尋ねなければわからない事は尋ねなければわからないんだよ。
人間ごときが勝手に判断しないで神にお伺いを立ててみるといい。
No.1633) senri(Tue Jun 7 01:49:09 2005)
矛盾に満ちた回答をありがとうございます。

「全知全能の神は自分でも持ち上げられない大きな岩を作ることができるか?」
この問いは、無神論者が全知全能の矛盾を指摘した、とても面白い問題です。
岩を作ることができなければ全能ではないし、
持ち上げられないのならばやっぱり全能ではありませんね。
しかし「それでも、全知全能の神はいる」と信じることはできます。
それが信仰というものではありませんか。

もちろん「信じる」という以外にも問題を解いたといえる答えはいくつかあります。
しかし、貴方はそのどれも答えることができなかった。
どうでしょうか。貴方は本当に神を信じていますか?

過去記事はこちらから: [0] [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100] [101] [102] [103] [104] [105]