編集や削除のご要望がありましたら個別にやります。遠慮なくおっしゃって下さい。
No.955) 私なりのまとめ 風花(Mon May 23 14:06:52 2005) |
No.957) 柴犬(Mon May 23 16:11:02 2005) |
No.965) 言葉の再定義について 風花(Mon May 23 19:26:53 2005) |
No.967) 柴犬(Mon May 23 20:38:27 2005) |
No.968) 柴犬(Mon May 23 20:52:32 2005) |
No.973) 「人間性の未熟さ」の解釈について 風花(Mon May 23 22:54:43 2005) |
No.1001) 柴犬(Tue May 24 00:32:07 2005) |
まず、自分が絶対的に正しいということを認めた後で、他人も(他人の基準において)絶対的に正しいということを認める。今までは、前者はできていても後者ができていない人が多かったから、「他人を尊重しろ、ルールを守れ」というメッセージを皆は流してきた。しかし、最近、前者ができない人が増えてきた。そういう人は、他人を尊重する前にまずすることがある。
自分を尊重できない人は、他人も尊重できない。自分を尊重できない人間に「尊重」という言葉の意味はわからないからである。ルールを破れない人は、ルールを守れない。ルールは破らずに守っているから意味があるのであって、破ることができないのは守っているとは言わない。
仰っておられ、そしてルールは、
>ルールとは、皆が持ち寄った「やってもいいかどうかの判断」の集合体だ。これを読むと、「ああ、自分の判断はおおむね正しいんだな」とわかる。
と定義されてますから、
社会が不健全だと言ったとしても自分が不健全(後ろめたい)と思わなければびくびくする必要なんてないってなります。
それと、先に言っておきますが、今回に関しても、Iwatamさんと私の考えは重なりませんよ。
>エロゲ愛好者が後ろめたいと思うとして、それは、自分の嗜好が世間にとってマイノリティだということを自覚しているからです。従って自己嫌悪にもつながりませんし、自己肯定の為に嗜好を健全化(一般化)しようとはしません。
と
>社会が不健全だと言ったとしても自分が不健全(後ろめたい)と思わなければびくびくする必要なんてない
は一見同じように見えるかも知れませんが、自分の嗜好が世間にとってマイノリティに過ぎないから自己嫌悪につながらないのと自分は絶対的に善であるからルールとどうかけ離れていても自己嫌悪する必要がないとでは根本的に異なります。
というか、コラム: なぜエロゲーオタクは嫌われるかとコラム: ルールと自我は逆のことを言ってるんですよね。
片方はルールを守れないエロゲオタは人間的に未熟だ(>正常な人間だったら、人に首輪をつけるような行為は許せない。小学生の女の子に性的なイタズラをしている所を見かけたら怒りを感じる。実際にこんな奴を見かけたら、有無を言わさずぶん殴る。これが「正常な人間の感情」だ。そして、そうした「正常な人間の感情」を持てないことを問題視しているのだ。これに対して「俺は空想と現実の区別はちゃんとついている」と言ってもあまり意味がない。)と言い、
もう片方はエロゲオタは自我を確立できていないからルールを守ってばかりいる(>自我を確立できていない人、自立できていない人だ。何をやってもよくて何をやってはいけないのかを決めるのは、ルールではなく自分だ。そして、それを自分で決める以上、自分は絶対的に善である。そうした考え方を持てない人は、常に「お前は悪」と言われることにびくびくしなければならなくなる。
まず、自分が絶対的に正しいということを認めた後で、他人も(他人の基準において)絶対的に正しいということを認める。今までは、前者はできていても後者ができていない人が多かったから、「他人を尊重しろ、ルールを守れ」というメッセージを皆は流してきた。しかし、最近、前者ができない人が増えてきた。そういう人は、他人を尊重する前にまずすることがある。
自分を尊重できない人は、他人も尊重できない。自分を尊重できない人間に「尊重」という言葉の意味はわからないからである。ルールを破れない人は、ルールを守れない。ルールは破らずに守っているから意味があるのであって、破ることができないのは守っているとは言わない。)と言ってるわけですから。結局どっちなんですか? Iwatamさん。
No.998) 一部の意見が一緒だからといって…… TYらいた(Tue May 24 00:20:11 2005) |
ただ、iwatamさんと風花さんの意見は全く違う。<私が言いたいのはこの一言です。
風花さんは結局最初からその意見があってコラムから重なる部分を合う様に読んでいるんじゃないでしょうか?
iwatamさんにとっては
・エロゲーを面白いと思うような心理状態自体にある。
・少数派だからというのではなく、先入観や偏見によるものでもない。心理的な問題によるものだ。(後略)
つまりA=B=C=「異常」(人間性の未熟)=「悪」とし、存在自体、人間として問題有りとする。
この極端な意見の理由として
・「正常な人間の感情」を持てないことを問題視、「俺は空想と現実の区別はちゃんとついている」と言ってもあまり意味がない
・「エロゲオタなんぞ、一般人から見たら薄気味悪い変態でしかないんだから、いくら反論しても無駄」「ここでいう反論とは「俺達は薄気味悪くはない」という論です。」
フィクションに対しての感情と現実に対しての感情を同一視していて、(どっちが区別ついてないんだか……)
多数派の主観を絶対の善としてマイノリティを認めていないと読める。(そして自分は常に多数派であるとする)
結局
異常者の精神安定剤として規制はしないでやるから、異常者だと認識して消えろ。(いままで何人も言ってるように、コレしか残らない)
となる。
風花さんは「社会的に嫌悪されてる行為をフィクションとはいえ好むものは嫌悪される。」
iwatamさんは「社会的に嫌悪されてる行為はフィクションだろうと許されない。好むものは異常で、人間として未熟だ。」
根拠なくエロゲーだけでなくプレイヤーの人間性にまでレッテルを貼った存在否定です。
つかさー、これだけ散々エロゲオタの人間性否定しておいて
>「エロゲーは悪」と言われると、まるで「お前は悪」と言われたのと同じようなショックを受ける。「人間どこかしら悪いところはあるさ」と思えない。
なんてしれっと書く奴の意見まとめる価値ないって。
No.975) 風花氏の勘違いしている点 三ニ零(Mon May 23 23:08:08 2005) |
・ No.955) 私なりのまとめ、において「エロゲーは社会通念上は嫌われてもしかたない」という 結論を書いているが、今回ツッコまれているのはそこでは無い。 「エロゲーを嫌うな」 などと誰も言っていない。 A・私はエロゲーが嫌い B・エロゲーは多数派に嫌われる C・嫌われるものは実害がなくても叩いてよい 管理人のコラムがこの3命題を混ぜて書いている点がツッコまれているのだ。 α・「エロゲーは社会通念上は嫌われてもしかたない」 β・「社会通念上嫌われるものは根拠なく犯罪の原因にされてもしかたない」 バッシング報道批判はβに対して行われている。そしてα(風花氏の結論)については誰も否定していない。 だが、管理人はαをもってβを批判している。そこが矛盾点なのだ。 風花氏も管理人と同じで、「論理がおかしい」という指摘を「エロゲーを嫌う人はおかしい」という内容に 取り違えていないか? もしそうなら、それは誤解だ。 もう一度言う。 ■エロゲー嫌いの是非ではなく、「記述がおかしい」のが今回の問題点だ。■ ・
No.1006) Iwatamさんの記述 風花(Tue May 24 00:46:19 2005) |
No.1019) 記述の問題 三ニ零(Tue May 24 07:01:28 2005) |
・ >β的な立場からのバッシングをコラムの論の中から排除している そうであるなら、「バッシングに対して怒っている多くの人」という記述はおかしい。 ネットで見かける報道批判の多くはβに対するものだからだ。 それは管理人自身が、 >「いや、オタクの多くは犯罪行為とは無縁だ」と弁護する と書いている事自体が証明している。 つまり、αのみに対して論じようとしているにも関わらず、βに関わる「怒っている多くの人」を 引き合いに出すから記述がおかしくなっているのだ。 これでは「論の中から排除」できているとは言えない。 だから結果的にαでβ批判者を批判するような内容になっている。 つまり「記述上の問題」なのだ。 ------------- 注:No.975訂正箇所 × αをもってβを批判している ○ αをもってβ批判を批判している (No.1006での風花氏の混乱がこの誤記の所為でしたら謝罪します)
No.1029) αとβ 風花(Tue May 24 07:38:31 2005) |
No.1031) その「仮定」が無いのが問題 三ニ零(Tue May 24 10:32:37 2005) |
>現状認識はIwatamさんの主観です そう。そしてそれは風花氏の指摘する通り、「仮定」なのだ。 にもかかわらず「断定」で語ればどういうことになるか?言うまでもないだろう。 何度も言うがそれは「記述としての問題」だ。 風花氏は「仮定した場合に」と書いておられるが、それは本来管理人がコラムの中で記述していなければならない言葉だ。 その問題を自覚していないから無駄にツッコまれ、混乱が拡がるのだ。 それから、 >(管理人にとって)今のバッシング批判者の多くはβ批判をもってαに反論しているように見えている。 >(今のバッシングが)αだと仮定するなら、β批判をもってαに反論するのはおかしい この「おかしい」というのは、 「エロゲーは、実害ではなく、嫌悪によって叩かれているのだから、実害の無さを主張しても意味が無い」 ということだと思うが、コラムにおいてその話が進んだ先は、 2A・嫌悪は当然なので叩かれても怒るな。 という結論になっているのだ。もしこれが 2B・嫌悪は当然なので報道批判運動のやり方を工夫すべきだ。例えば〜 という発展的なものであったなら今回の様な騒ぎにはならなかったかもしれない。 しかし、2Bではなく2Aの結論となっている背景には管理人自身の「エロゲー嫌悪」↓が見て取れる。 No.897>俺はエロゲオタが嫌いだ。 No.895>エロゲオタなんぞ、一般人から見たら薄気味悪い変態でしかないんだから そしてコラム中にも攻撃的な記述が散見される。 これでは単なる嫌悪表明を理屈で飾っているように受け取られてしまうだろう。 もし「嫌悪感覚の一般性」だけについて語るのであれば、個人的嫌悪や報道批判などの話題とは 絡めるべきではなかったし、そうした記述のまずさの為に 2α・自身の嫌悪 2β・嫌悪感覚の一般性 2γ・実害なき、嫌悪による迫害 という3つの論題が混ざってしまっているのが現在の状況だ。 風花氏はNo.955)で今回のコラムを「エロゲーは社会通念上は嫌われてもしかたないか?」という命題(2β) として解釈されているが、問題はその命題の真偽以前、つまり論題が混ざってしまう記述のマズさにあるのだ。 現時点では管理人の真意が2βなのか、それとも2αの為に2βを援用しているのかよく分からない。 そしてNo.897等に見られるように、後者の可能性を高める材料を自分で出してしまっている時点で 2βと認識されるには不利な状況が続いている。
No.954) 風花さんとiwatamさんへ エリー(Mon May 23 11:22:29 2005) |
No.956) 柴犬(Mon May 23 14:20:18 2005) |
一つめのパラグラフは自分に関係ないならいいけど、悪影響を及ぼすのはやめてほしいということでしょうか。二つめ三つめは私の読解力不足なのか何を仰りたいのかよく判りません。
四つめ五つめは価値観によるでしょうね。「好かれたいから従順になる」というのではなく「対象者が好きだから欲求に応えてあげたい」という考え方も存在するわけです。この辺の問題は多分答えは出ません。
六つめの
>「自分には価値がない」と思っている子供がサディストの餌食になるのは納得がいかないと思う。ましてそれが何も分かっていない自分の娘が対象になる児童ポルノなら、親として駄目だと思うのは自然な感情だと思う。
激しく同意、ですね。その通りだと思います。多分一般人エロゲ愛好者問わず多くの人々が現実においてそんなことがおきれば激しく非難すると思います。
七つめの
>もし「妄想だけならいい」というなら、「私はあなたのことが嫌いだけど、自分の手を汚すのは嫌だから、事故にでもあって死んでくれればいいのに」と本当は思っているのに、「人のことを嫌うのは悪いことだから」と相手の前ではニコニコ愛想よくして一緒にい続けようとする人間を許せるでしょうか?
これには全く同意できません、というか許せます。「人のことを嫌うのは悪いことだから」とはまた別の理由になりますが、嫌いな人と折り合うなんてことは社会に生きる上で当たり前のことだと思います。会社の上司が殺してやりたいぐらいに憎かったとしてもそれが自分の上司である以上「心の中では死ねと思ってるんですよ」なんて言えるわけありません。自分の気持ちを殺してでも優先させなければならないモノが社会生活においては沢山あります。我が儘ではいられないのです。嫌なら辞めればいいというのは逃げにすぎません。養うべき家族がいたり、再就職が困難であったりする局面はやはり有り得るのですから。勿論自分の気持ちに正直になって且つ自分(と周りの人)が幸せになれるならそうすればいいと思います。それだけの能力があるのは素晴らしいことだと思います。しかし、皆が皆そう出来るわけではないということを忘れないでください。そして、私は、嫌いな人とも折り合って生きていける人こそが大人なんだと思います。
八つめ
> 性的な妄想だからではなく、「自分はされたくなけれど、他人にはしたいこと」だから嫌なんだと思います。「私だってされたくないんだからね!」と、誤解されないように宣言しているだけだと思う。監禁されてからでは遅いから。
バッシングするのに理由が必要だから、理由付けしているけれど、要するに「されたくないです」と言っているだけだと思う。だって「否定しないからいい」と思われたら困ります。否定しないではいられないくらい不安にさせるものだから嫌なんです。
何故、されたいと思っているかされたくないと思っているのか、エロゲをプレイしている人間だと判断できないと思われるのでしょうか。そう思われるかもなと頭では判っていても悲しい気分になります。例えばエロゲなんて全然しない恰好いい男性が居て、女性を飲みに誘う。女性は男性のことを何とも思っておらず、まぁ、奢ってくれるって言うからいいかぐらいの気持ちで付いていったらぐだぐだになるまで飲まされて部屋に連れ込まれて襲われたなんてことは、現実だと全く起こり得ませんか? 「だって付いてきたし、OKなのかと思った」なんてことはエロゲをやらないと考えつきもしませんか? そんなの本人の問題でしょう。
次のパラグラフでも
>鉄道マニアは、「本当はやってみたいのに恥ずかしいから我慢しているのではないか?」などと思わず、自分しか楽しくないことを納得している
と仰っておられますが、「この人は鉄道嫌いって言ってるけど、好きに違いない」って思う鉄道マニアがいないなんてどうして言えるんですか。エロゲが好きだから、鉄道が好きだから、その両方が嫌いだから、そんなことで現実と妄想の区別が付く付かないは決まりませんよ。
エリーさん自身が最終パラグラフで仰っておられます。
>エロゲーだからではなく、「不安を感じる人間を安心させる事が出来るか?」が問題なのではないでしょうか?
その通りです。不安を感じる人間を安心させられるか否かは、エロゲをプレイしているか否かではありません。ですから、エロゲがバッシングを受ける謂われなんてないのです。
No.961) こんにちは^^ エリー(Mon May 23 17:13:09 2005) |
No.966) 柴犬(Mon May 23 19:33:03 2005) |
No.1086) 誤解について エリー(Wed May 25 10:09:43 2005) |
No.997) 怒りと不安について 三ニ零(Tue May 24 00:18:18 2005) |
>「不安を感じる人間を安心させる事が出来るか?」 >「犯罪者と誤解される怒り」も「被害者になってしまう不安」も同じ 「誤解される怒り」には「対話」で、「不安」には「理解」で抗するのが正道でしょう。 バッシング報道批判者達はマスコミにメールを送ったり、blogで疑問を呈したりすることで 何とか「対話」に持ち込もうと努力している。 一方あなたは「理解」の為に普段なにをやっていますか? http://kangaeru.s59.xrea.com/toukei.html ネットのおかげで犯罪件数推移のデータなども入手し易くなっています。 こうした資料を見る限り「ポルノ増加 → 性犯罪増加」という因果関係が虚構であることや、 「実は不安の最大要因は『報道』による『煽り』にあるのではないか?」 という新たな疑問も得ることが出来ます。 TVの視聴率競争などを考えると、「不安を煽る事による経済効果」は無視できません。 自分を「不安」に陥れているものの正体が果たして何なのか? それに立ち向かうには、“自身の不安に向き合い、調べ、考える”しかありません。 「私を安心させろ!」と一方的に主張するだけではなにも解決しないでしょう。 そういう人間は「あなたに『安心』をご提供します!」という商売の餌食になります。
No.1085) 利己・利他の具象化 エリー(Wed May 25 09:34:10 2005) |
No.1147) 三ニ零(Thu May 26 02:35:37 2005) |
>あなたの主張は「他人が重要だと思う問題を重要だと考えてないのはおかしい」と言っているように聞こえます。 そう解釈されたのであれば、私の記述が拙かったということだ。 申し訳ない。 ヒトは誰でも何かしらの「不安」を持っているだろうし、それに対する為に「思考」や「行動」を行う。 例えば「エロゲーに対する不安→規制したくなる」という思考もその一つだ。 しかし、「自身の不安が何に基づくものか?」「その対処方法には実効果があるか?」といった点を考えず、 行動に走ればかえって状況を悪化させるだけだろう。 つまり、 「不安に対する際の的外れな対処により状況を悪化させる」ことについての懸念、 「私の不安を解決してくれそうな何か」に安易に流れる傾向についての懸念、 「嫌う人が多ければ誤解されても仕方ない」とつい考えてしまうことへの懸念、 そういった切り口からの意見を出させて貰ったつもりだった。 「嫌なことを受け入れて欲しい側」という記述があるが、「嫌悪」は「嫌悪」のままでよいと思う。 結局必要なのは「嫌悪」と「排除」の理性的分離であり、それは様々な価値観が交錯する現代においては 身に付けた方が確実にトラブルを減らすことができる思考だと思う。 −−−−−−− これは一つの説だが、「客観」という概念の背景には「自身に対する認識」つまり先ほどの話で言えば、 「『不安に思っている私』という認識」と、「状況に対する際の有効性」があるのではないかと思う。 つまり「客観」概念は、自身の不安に対処する際に有効なものであり、こうしたメリットがあるから 今日まで使われつづけているのではないだろうか。 遡って考えるなら、生物有機体のセルフモニタリング(つまり、ある対象が有機体にもたらす変化の様相を 「対象と有機体の関係性情報」として、有機体自身が入手運用すること)が生存に有利に働いたということから 始まるのかもしれない。 そう考えると哲学的題材としての「客観」概念は論理の操作から後づけで考え出されたものであるように感じる。 もし、「『客観』は自らに対して行った時に効果を発揮する技術の一つである」という説が貴方の「主観・客観」考察に おいてなにかの参考になるならば幸いである。(役に立たなかったなら申し訳ない)
No.953) 江戸屋(Mon May 23 10:55:36 2005) |