iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

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No.378) ジャンケンgame mind[HOME](Sat Mar 27 05:40:27 2004)
友人と面白いカードゲームを作ろうという企てを話してて、ここに来ました。
ゲームに対する真面目な取組み、共感するものがありました。

ところで、実際のジャンケンgame、捨てたものではないですよ
なぜなら、人間は、ランダムには振舞えないからです!
100回も繰返せば出す手の規則性が顕著になってしまい、
そこをcomputerで分析すると、勝率5割以上をあげることが可能になってしまいます。
人間は、「「相手」がランダムに振舞っている」と信じて、
「ランダム」に応えようとすると、負けてしまいますー
このgameに短時間で勝とうとするのは極めて難しいです。

No.379) ジャンケンについて iwatam(Sat Mar 27 16:00:41 2004)
ゲームデザイン論のところではジャンケンは「ゲームではない」と言いました。
ゲームのゲームたる所以は、プレイヤー同士の意思のぶつかり合いにあります。お互いに意思があるからこそ「読み」が存在するわけです。「相手が何を考えているのか」を推測するのがゲームであり、「相手が次に何を出すだろうか」を推測することとは違うことです。
何も考えてない相手とジャンケンをするのは自然を相手に戦うことであり、考えることは多いかもしれないし面白いかもしれないけれどそれはゲームではありません。
ここでの文書はすべて(対人)ゲームの観点でものを言っていて、世の中で言われる「ゲーム」より狭い意味であること、そしてここで「面白くない」と言っているのはこの狭い意味のゲームではないと言っているだけで一般的に面白いかどうかとは別問題であることをご理解いただきたいと思います。
もしご意見がありましたらまたお聞かせください。よろしくお願いします。
No.375) 客観的根拠とは? デビル(Tue Mar 16 16:43:40 2004)
こんにちは。「議論のしかた」拝読しました。

ところで、ある主張に対して、反論をするのではなく、いわゆる「何時何分何曜日」論(?)で、根拠の無効性を指摘し、それをもって自分を正当化する人がいます。

私は今、違法行為についての議論に参加しています。
私が「この行為は違法だ」と主張するのに対し、その人は、根拠を崩すこと一辺倒で「だったら違法だとは言えない」と主張します。
「だったら違法だとは言えない」であって、「違法ではない」とする主張がありません。
そのため、私は反論もできないまま、結果として「違法だとは言えないから、違法ではない」となってしまうのです。
なんか、フェアじゃない気がします。

「客観性」とは、なんでしょうか。
「ある人物がとった行動(事実)」と「法律」と「過去の判例」を用いて(照らし合わせて)、「したがって違法である」と論理的に述べるのですが、

相手・「それは結局お前の主観でしかなく、お前がそう思っているだけ。つまり妄想でしかない」
私・「『事実』『法律』『判例』は、客観的根拠になりませんか」
相手・「では、『事実』である客観的根拠を挙げよ。『法律』に抵触する客観的根拠を挙げよ。『判例』を今回のケースに用いる客観的根拠を挙げよ」
私・「『法律』で禁止されている行為をした『事実』は、誰が見ても明らかでしょ。同じことをした人の『判例』は参考になります」
相手・「では、『誰が見ても明らか』の根拠を挙げよ。それは客観ではなく統計だ。国民調査の結果を明示せよ。別件である『判例』を持ち出すのは、すり替えでしかない。ひきょうだ。別件を持ち出すならまず、別件と今回のケースが同じである客観的根拠を挙げよ。」

以下、
私・「それは、○○だから」
相手・「では、○○という客観的根拠を挙げよ」
…こういった調子で延々と続きます。一言一言、「その客観的根拠は?」で、それがないと「お前の妄想」。

そうして、「結局、お前の主張は、みんなが納得できる客観的根拠がない。つまり、お前の主張は通用しないってことだよ。フフフ」と勝利宣言(?)するのです。
「根拠も示せないのに、妄想だけでひとを犯罪者呼ばわりするな。お前がやっているのは差別だ」ということになってしまいました。

こういった場合、どのように対応すれば良いのでしょうか。意見を主張したくても、この論法で出鼻を挫かれると、本当に困ります。

No.376) 質問をすべきだと思います iwatam(Sat Mar 20 03:09:42 2004)
心中お察しします。こんな風に議論どころかまるで話のできない人がまだまだたくさんいます。

私は、まず「本当にこんな人と議論をする必要があるのか」から考える必要があると思います。極端な話、「はい、あなたの勝ちです。おめでとう」で済ませて二度とその人とは議論しないという手が一番現実的ではあります。

それは議論からの逃げだという話もありますが、私は別に逃げていいと思います。
それは議論に負けたことになるという話もありますが、議論に勝ち負けはありません。

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とはいっても、やはりどこかフェアでないものを感じます。れはなぜかという
と、相手が質問をしてあなたが答えるという一方的なやりとりだからです。疑問
に思ったところはあなたも質問してみてはいかがでしょうか。

例えば「お前の妄想」と言われた時に「なぜこれが私の妄想だと言えるのですか?」
と質問すればいいのです。相手が「○○だから」と言ってきたら、「○○だという客観的証拠を挙げよ」と言えばいいのです。
「つまりお前の主張は通用しないってことだよ。フフフ」といってきたら「なぜ通用しないのですか?」と聞いてみればいいのです。

基本的に、納得のいかない個所を質問すればいいのです。
ただし、この展開ではおそらく有益な結果は生みませんから、するのはエネルギーの無駄ではあります。

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なお、このように低レベルな相手に合わせて同じ論法を使うと自分も相手と同レベルになってしまうと思われるかもしれません。その通りです。そして、議論では相手と同じレベルに立たなくてはなりません。違うレベルで話していては議論がかみ合うはずもありません。相手のレベルに合わせるというのは大事なことです。

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こうした構図がなぜ問題なのかというと、相手は意見を変えるつもりはまったくないのにあなたが相手の意見を変えようとしているからです。議論には強制力はないので、相手が自分から変わろうとしない限りあなたは相手の意見を変えることはできません。
逆に、相手より自分の方が正しいと思っているなら、相手の意見を無理に取り入れる必要はありません。相手の意見を取り入れたいと思うのはそれが自分の意見より優れているからであるはずです。

つまり、なぜフェアでないと感じるかというと、本来議論にはないはずの強制力を勝手に感じてしまうからです。議論は相手の意見を変えるのが目的ではありませんし、自分が間違っていると思う方向に自分の意見を変える必要もありません。

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私はあなたの問題の背景は知りませんので、ここで述べたことは的外れかもしれません。しかし、議論で起きるトラブルの多くには、そもそもなぜ議論をするのかという目的を見失っていることが往々にしてあります。
私が気になったのは最後の「意見を主張したくても、この論法で出鼻を挫かれると本当に困ります」という一文です。意見を主張するのではなく、疑問をぶつけ
てみるというスタンスでいれば得るものがあると思います。例えば「客観性とは何でしょうか」とずばり相手に聞いてみてはいかがでしょう
か。

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以上、批判めいたことも書きましたが、私が思ったことを卒直に述べました。
ご参考になりましたら幸いです。

No.377) ありがとうございました デビル(Sat Mar 20 18:59:11 2004)
お返事ありがとうございました。

きちんとした反論であれば(「それは違う」など)、相手の考えていることが見えて良いのですが、このようなやり取りの繰り返しは、おっしゃる通りエネルギーの無駄ですね。

相手は、私の論を検証しようともせずに、ただ困らせようとしているだけのようです。
(質問の際、「それではこれでどうだ。答えられないだろうアハハ」と書いていますので)

最初は「知ろうとしているから、質問しているのだな」と、いろいろ説明してきましたが、そうではなく、ただ困らせるためだと分かったので、もうやめにするのが賢明ですね。

>疑問をぶつけてみるというスタンスで

了解しました。
ただ、彼に対しては、もう関わらないようにします。(苦笑)

No.373) 文系か理系か 山吹次郎丸(Wed Feb 25 22:46:56 2004)
はじめまして。
20代も半ばを過ぎた会社員(男)です。
iwatamさんのコラムの明快で理路整然たる論理の展開に、楽しませてもらうと同時に多くの啓発と思考材料をいただき感謝しています。

文系と理系の区別に関して考えたことなのですが、
文系学問は人間がいるがゆえのものを対象とし、理系学問は人間のいるいないとは無関係にそこにあるものを対象にする、というような区別を聞いて、なるほどと思った記憶があります。
もっとも、量子力学だの人間原理だのを聞くと、その区別も曖昧になってきますが、究極的には文系の命題も理系の命題も同一の理論から説明できるようになれば、科学も終わりが見えて来るということでしょう。
「科学の最終目的はただ一つ、人間とは何か、を説き明かすことである」
という主張を私は支持してます。

とはいえ、文系人間と理系人間の違いという事になれば、それはまた違った議論になるのでしょう。

一つの案として、こんな区別はいかがでしょう?
「理性に重きを置いてこそ人間」と思うなら理系。
「感情に重きを置いてこそ人間」と思うなら文系。

No.374) 少し恥ずかしいような iwatam(Sat Feb 28 02:20:48 2004)
「文系と理系」の話は、まだコラムの書き始めの頃だったこともあって、今見るとちょっと恥ずかしいようなところもあります。一番恥ずかしいのは、ずばり「文系と理系とは何か」を書いていないことです。
 文系と理系は、あなたのおっしゃるように、文系は人間(あるいは考える葦)から生まれるものを対象とし、理系は人間がいなくてもあるものを対象とするという区別が明確でよいと思います。
 そして、心理学とか人間機械論などは理系に傾いた文系で、人間原理などを含む宇宙論は文系に傾いた理系なのでしょう。
最終目的でいえば、理系は「世界とは何か」で、文系は「自分(人間)とは何か」になるのかなと考えました。なにやら面白そうなテーマではあります。
 で、理系人間と文系人間の区別ですが、2つではなく、「体育会系」も含めて3つに分ければいいんじゃないかとも思いました。そして「体育会系=バカ」と。でも、感情というのも文系というより芸術系ですよね。うーん、難しい。
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