iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

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No.476) 「確信犯」 ふにゅ(Thu Oct 14 17:19:50 2004)
面白い考察でした。以下の文章の定義を変更する事で故意と過失に差が出ると思います。

>正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断してなされる
>これは定義上あり得ない。判断は行動のベースになるものだからだ。
>「悪い行動」という言葉を「自分が避けるべき行動」と定義すれば、この矛盾がよくわかるだろう。

正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断したが悪い側面が無効になると信じてなされる。
俗に言う「許される、見逃される、見つからない」と思って行う行為で故意犯に当たる。

・確信犯
正しい側面の方が悪い側面を上回っていると判断してなされる犯罪
・故意犯
正しい側面より悪い側面の方が上回っていると判断したが悪い側面が無効になると信じてなされる。
・過失犯
正しい側面と悪い側面の比較ができないままなされる
正しい側面も悪い側面も考えないでなされる

としてみては如何でしょうか?

No.477) 故意犯とは iwatam(Thu Oct 14 19:18:28 2004)
おっしゃるとおり、確信犯と故意犯と過失犯は違うものです。私は故意犯を「正しい側面と悪い側面の比較ができないままなされた犯罪」と(文章には書いてませんが)定義しました。
「あいつを殺したい」と思って、それに悪い側面があることも認識したけれども、それに対して「いや、これは本当はいいことなのだ」と思うまでに至らずに「人殺しは本当は悪いことなんだけど……ええい、やってしまえ」とやってしまうのが故意犯です。自分の中で結論が出ていなくて、迷いがある状態です。
「悪い側面が無効になると判断した」というのはすなわち「悪くないと判断した」ということなのではないでしょうか?ここでは、「善悪は自分で勝手に決めるもの」言い換えれば「人殺しでも泥棒でも見つからなければ全然OKだと思う人にとっては、見つからない=悪くないという定義である」と仮定して話をしています。
No.478) ふにゅ(Fri Oct 15 09:53:24 2004)
見つからない=悪くないという定義とするならば確信犯と故意犯は同じ扱いになると思います。社会的(宗教的、政治的など)な考えによって正しいと思ってなされる行為が確信犯。個人的な考え(見つからないのでOKなど)によって正しいと思ってなされる行為が故意犯。という方が現実にあっているように思われますが如何でしょう?「正しい側面と悪い側面の比較ができないままなされた犯罪」も故意犯に含まれると思いますが、計画犯は「これで見つからない」と判断が行われた末に犯行が行われていると思えるからです。
No.479) 社会的な考えとは iwatam(Fri Oct 15 14:52:47 2004)
あなたの言うことはまさにその通り。問題は、社会的な考えかどうかによります。そして、問題の原因は、社会的な考えというものが存在しなくなっているからです。宗教(例えばオウム)は社会的か?とか、政治(例えば右翼街宣車)は社会的か?と考えると、「政治も宗教もまともな一般人のやることではない」「政治も宗教も社会的でない」という結論が出がちです。(例えが悪いのはその通り。ただ、一般の人が政治活動や宗教活動というと真っ先に思いつく例です。)
とすると、社会的な考えとは何なのか。端的に言えば、「社会などというものは存在しない」という考え方は社会的な考え方なのか?という質問になります。
上に書いた話では、確信犯と故意犯を分ける境は「見つからない=悪くない」という定義を自分自身でするかどうかにかかっています。そういう定義をしてしまった人は確信犯で、していない人が故意犯というわけです。
No.482) ふにゅ(Mon Oct 25 14:15:32 2004)
なるほど、社会的とは何かという所が問題の根幹だったのですね。考えが至りませんでした。しかし、その個人が社会的と思って行った行為が法律上の犯罪行為である場合を確信犯としたいです。(ここら辺に来ると客観的な意見ではないような気がしてきます)右翼やオウムに属している個人からするとそこが社会の全てである場合、犯罪行為でないという認識の元に法律上の犯罪行為が行われます。国という単位の大きな社会に反する集団という小さな社会で正当化された行為を行う事を確信犯とする。というのが私の考え方です。
集団心理による犯罪の分類に対応する言葉なのだろうか?
No.483) 原義はそうじゃないかと思います iwatam(Tue Oct 26 02:23:16 2004)
私も、大きな社会と小さな社会の対比の話は直感的にそんな感じがします。それが原義に一番近いのかなぁと思います。それが、社会がだんだん変わってしまったせいで、意味が変わってきたのではないかと思います。
まず、国(あるいは大きな社会)に自分が属しているという感覚が少なくなり、「国は正しい」という意識がなくなってしまったこと。国は正しいどころか間違っている存在であり、いつもいつもマスコミに批判されっぱなしです。
そして、小さな社会がどんどん細分化されて、しまいには自分ひとりになってしまったこと。大きな社会の力が強かった頃は、それに立ち向かうには団結しなければいけませんでした。今では多くの人は国が正しいなんて思っていないので、わざわざ徒党を組まなくても一人で「国は間違っている」と言うことができてしまいます。

大きな社会を批判して小さな社会を作り、その小さな社会も批判して結局個人になってしまったというのが、私の言う確信犯の解釈に納得のいく人たちなのではないかと思います。
大きな社会に反対して小さな社会を正当化するのは何か変じゃない?それって社会の大きさが変わっただけで結局同じ穴のムジナじゃん。どうせやるなら社会をすべて否定しないとダメだよ。というわけです。これが正しいかどうかは別として、こんな感じで確信犯=社会正義の否定になってしまったのではないかなぁと思います。

No.484) もともとの「確信犯」 miy(Tue Oct 26 20:30:07 2004)
「確信犯(確信犯人)」という概念は、もともとラートブルフ(Radbruch)という個人によって提唱された概念であったようです。もともとの「確信犯」という言葉の意味するところは、彼の文脈によってある程度限定されます。(確信犯という言葉は、どうやらUberzeugungstat/verbrechenの訳語であるようです。)
この場合の文化庁の調査は、単純に、「言葉の出自に関する知識をもっているか?」という意図のもとで行われたのではないかという気がします。

私は「文化庁の定義は言葉足らず」という主張に賛成しますし、コラムの本文にも反論はありません。
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もともとの「確信犯」意味に従うなら、文化庁の掲げる「確信犯の正しい意味」が示そうとした意味は、
「政治・宗教等に関係した、(この世はこうあるべきであるという価値観に由来する)信念に基づいてなされる、法規定の違反」あたりになるのではないかと思います。
文化庁の文における「政治的・宗教的など」という限定句は、政治・宗教が世界に対する見方を強く提供するものであるために添えられたものなのでしょう。(解釈する人によって、ここに「道徳的」「思想的」などの言葉を並べていることもあります。また、「信念」の部分を「信念にもとづく義務感」と表すものもあります。)

「(もともとの)確信犯」と「(法律用語としての)故意犯」の領域は、重なる部分もそうでない部分もあるようです。「確信犯」は、法規定に違反するという認識の有無について言及しません。
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文化庁の文の問題は、コラム本文でも述べられているように、「正しい」「悪い」に関係した情報を欠いている点だと思います。
間違いとされている文に関しては、直感的に、私は「『(法体系において)悪い』(=法律違反の)行為であると分かっていながらなされる犯罪行為」、つまり故意犯を指し示す文だと感じました。
一方、誤用する人の解釈として、コラム中では「『(自己の利益において)悪い』(=損な)部分がある行為であると分かっていながらなされる犯罪行為」というものが挙げられています。文化庁の文を見る限りはどちらともとれるのであって、「正解」「間違い」のラベル貼りをするには確かに曖昧すぎる文だと思います。
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上の話とはあまり関係がありませんが、
確信犯といって「右翼・カルト」が浮かぶという背景には、「既存の国(およびその法律)は正しい」という意識の方がむしろ生きているような気がします。

「政治・宗教等の側面から正しいと信じて、実定法に反する行為を行う」という文から、例えば、
・国の政策により、国内にいる、ある特定の身分の人間を捕らえて収容所に送る(あるいはこれに協力する)ことが国民に義務づけられる。その身分の人間をかくまった者は、法律により処罰される
・自分が属する宗教の側面から見て、このような状況は許されないと考え、あえて法律に反する行為をとる
という確信犯人の像が浮かびます。

ラートブルフが生きた時代はドイツの1800年代後半から1900年代前半であったそうですが、彼の持つ国家像は、今の日本のそれとは大きく異なっていたのではないかと思います。

No.485) 確信犯のもともとの意味 iwatam(Wed Oct 27 21:11:30 2004)
上の「大きな社会」「小さな社会」を原義だというのはおかしいということでしょうか。
一般の「確信犯」を誤用だと言う人の中に、こういう(=小さな社会という)ニュアンスでの定義をする人が少なくありません。ですので私はこちらが原義でその解釈が変化していったのかと思いましたが、もしこちらが誤用だとすると、人を「誤用だ」と言っている中のかなりの人は自分たちも誤用しているのかもしれません。
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もともと、「政治的・宗教的なもの」というのは「世界の見方」です。しかし、世間ではこれを「ある特別な規則を持つ社会集団」という意味で使うせいで、意味がずれてきているのではないでしょうか。
つまり、正しい文を「自分たちの集団が持つ規則を優先し、国の決めた規則に違反すること」と読んでしまうということです(これが前の小さな社会の話ですね)。そうすると、これは確信犯の本質である「信念」の概念を含まなくなってしまいます。(文に「信念」と書いてあるのに含んでいないというのはどういうことだと思われるかもしれませんが、「政治的・宗教的などの信念=特別な規則≠一般的な信念」と解釈してしまうということです)
それなりに普及していると思われる考え方に「正しい=規則を守る」という考え方があります。犯罪でなければ何をやってもよいという考え方です。この考え方に基づくと、正しさというのは規則(法律)がないと定義不可能だということになってしまいます。「信念」も「確信犯」も定義不能になってしまいます。そうなると、確信犯を定義するには上のように読む必要が出てきます。
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もう一つ、ドイツ語のuberzeugen は英語のconvince、日本語で言うと「説得する・納得する・確信する」という意味です。証拠を挙げて論理的に結論を出すという意味です。話を聞いて、なるほどその通りだと思った、という意味です。
日本語の「確信」あるいは「信念」は、アプリオリに正しいというニュアンスが含まれてしまうように思います。誰が何を言おうと俺が正しいと思っていることは変わらないんだ、という意味です。政治的・宗教的という補足のせいで余計にそう解釈できるように見えます。ここも間違いの原因かとも思いました。
「確信」という訳語はニュアンスを間違って伝えているので、直訳した文をそのまま「正しい」とするのは違和感があるのです。
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上の話とはあまり関係がなく「国は正しい」という意識の話をします。
昔は法律は変えられないものであり、それが間違っているとしたら法律を破るしかなかったわけです。今では(建前上は)間違った法律を変える合法的な手段がいくつもあります。とすると、昔の概念をそのまま持ってきても通用するはずがないという気がします。
「国は間違っている」と言えること自体が国の正しさの証です。アメリカを指してよく言われる話ですが。
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ご指摘のおかげで、私の中ではまた一つ何かがはっきりしたような気がしました。
ありがとうございます。
No.471) 問題の問題の問題 狩野宏樹(Thu Oct 7 12:52:19 2004)
作図して分度器で計ることを教えないのはなぜですか?
実用性を云々するなら一番確実な方法だと思うのですが。
No.472) 実は・・・ iwatam(Thu Oct 7 16:11:42 2004)
図形を作図して求めるのと解析的に求めるのは大きな違いが一つあります。
作図して分度器で計った場合、その答えが本当に30度なのか、それとも本当は29.8度なのかがわかりません。作図の場合は本質的に誤差が含まれてしまいます。
そういう意味では、「電卓をたたけば答えが出る」というのも厳密には誤りです。電卓をたたいて出た数字には誤差があるからです。しかしこれは作図と違い、桁数の多い電卓を持ってこればいくらでも誤差は小さくなります。
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本当のところを白状すると、式を三角関数の公式に従って単純化しただけできれいに答えが出るんじゃないかと思ったのですが、最終的には答えがでたもののそれが恣意的ではなかったかというとちょっと疑わしいところがありました。それであまり歯切れのよくない書き方になっています。
もう少し理詰めで考えて何とかなるような気はするのですが……
No.473) 「「問題」の問題」はやはり問題? あらきけいすけ[HOME](Tue Oct 12 13:59:23 2004)
大学で教育をする身から考えると、分度器を用いる方法を否定的に考える理由が分かりません。

きちんと作図をし「ほぼ30°」というあたりをつけてから、必要な精度に応じて電卓、そして理論計算に移行していくというのが、貴方の考えるベストの教育像に近いのではないですか?

あなたの趣旨では中学の解き方がパズル的であることが問題だったのですが、高校数学を用いた解放も10、20、等の角度の三角関数の処理というパズル的要素を含んでしまうという点で「同じ穴の狢」になりかかってませんか?

あなたの主張の骨子は「問題解決の能力をつける教育とは」のはずです。作図はダメで電卓はOKという回答に基準の曖昧さ、思考の詰めの甘さを感じます。

No.474) 値を出すことは問題ではありません。 iwatam(Tue Oct 12 16:16:30 2004)
結局、あの問題が何を質問しているかによるでしょう。
もし本当に角度が知りたいのであれば、おっしゃるように作図して求めればいい話です。
「電卓で求めればいい」と書きましたが、「電卓で求めなさい」というのが真意ではありません。「式さえ導ければ、値をわざわざ計算する必要はない」というのが真意です。
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作図をする方法では実用上の精度が云々と言っているわけではありません。実際の問題解決では作図でほとんど用は足りるでしょう。しかし、これは実際の問題ではないのです。数学で「解ける」というのは、実用上十分な近似解が求まるということではなく、厳密な解が求まるということです。
作図による方法と電卓の方法では違いが一つあります。作図による方法では、一度も思考レベルに問題がブレークダウンしていないことです。「やってみたらそうなった」というだけで、一度も考えていません。それでは本当に「問題を理解して解いた」とはいえないでしょう。だから作図ではダメだと言っているのです。
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おっしゃるように、最後、きれいにtan30°を出す部分は恣意的な解法が入ってしまっていますので、書いたとおり、これでよしとは思っていません。(本当はもっときれいにまとまるかと思ったけれどまとまらなかったもので・・)
少なくとも、dy/dxまでは、何のパズル的要素も必要なく出るはずです。
そして、その式に変数が入っていなければ、それがどれだけ複雑でもそれで一つの「答え」です。重要なのは、「電卓を叩けば答えが出ること」ではなく、「人間が考えなければならない要素がもう残っていないこと」です。後者を「あとは機械的プロセスだけで答えが出ること」つまり「電卓で答えが出ること」と言い換えました。
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結局、あの問題で何を考えてほしいのかを考える必要があります。あの問題であそこの角度が30°になることはどうでもよく、もっと一般化して考えてほしいのです。「どんな図形でも適切に長さや角度が与えられていれば他の長さや角度が求められる」というのが重要なことです。そして、どういう場合には求まり、どういう場合には求まらないのかを考えるのが、真に「理解する」ということでしょう。
No.475) 貴方のページを拝見しました iwatam(Tue Oct 12 20:16:29 2004)
リンクされている貴方のページを拝見いたしました。それで、根本的な違いがよくわかりました。
貴方は「生きた知識」とは「優れた問題解決能力」だとおっしゃっています。私は、そうではないと主張しています。根本に食い違いがあることをまず認識していただきたいと思います。
そもそも、知識に生きるも死ぬもないというのが私の主張です。知識というのは問題解決の道具ではなく、それ自体が目的になるものです。人間は、ムダな知識を蓄えることに喜びを覚える唯一の動物です(とどこかで…)。教えるときにも、知識を得ることそれ自体の喜びを伝える必要があります。
(という話で行くと、私は「生きた知識」は定義しないという立場ですから、「私はその上に立って生きた知識をこう定義する」というならその通りです。そして、そう定義するなら、生きた知識しか教えないのは良くないという意見になるわけですが。)
「教わる」というのは、記号として与えられた知識を自分で内面化することです。多数の例や断片的な記述から、自分の中でその総体的なイメージを作り上げることです。知識を抽象化していくことだとも言えるでしょう。自分でも何を言っているのかよくわかりませんが、口では言い表せない何かであると解釈してください。「感激にうち震え」などと表現したのはこのことです。
これは、問題ができたことによる達成感や、テストの点が上がったことによる優越感とは別のものです。ここを勘違いされないためにも、あまり機械的操作の多すぎる問題や公式への慣れが必要な問題は避けるべきだと考えます。
機械的操作や公式の記憶が必要ないと主張するわけではありません。知識や思考とは何かということがまだ良くわかっていない人に対して、公式の暗記が知識であり思考であると間違って解釈されないようにしなければいけないということです。
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「そのコタエは自分で見つけるものだよ。 みんなそうやってオトナになっていくんだ。」とおっしゃっておられますね。その通りです。
ただ、この発言を「そんな質問をするな」という意味で使う人がいるので気になった次第です。「運動方程式とは何か」という質問は、生徒がするべき質問で、その答えも自分で考えるべき質問です。生徒が「運動方程式とは何か」と聞いてきたら、先生は喜んで「よくぞその質問をした。そのコタエは自分で見つけるものだよ」と言うべきだということです。
こういうことに対して答えを自分で見つけようとしないで、ただ公式を暗記して問題を解けるようになっただけで「コタエを見つけた」と思ってしまってはいけないということです。
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なお、あのコラムの主張は「こうやって解かせよ」ではなく、「解かせるな」という主張です。その上で、もしやるならせめてこんな風にすべきだと主張しています。どう解いても同じ穴の狢になるのはそのとおり。それは解法や考え方が悪いのではなく、問題が悪いからです。
No.480) がっかりしました あらきけいすけ(Fri Oct 15 20:08:46 2004)

「「問題」の問題」の問題点についてはここでは議論しません。

わたくしの拙いページをご高覧いただきまことにありがとうございます。 自分のページがこんなに曲解され得るものかと思うと、 自分の筆力の無さに内心忸怩たるものがあります。

あなたはこうおっしゃいました。

「教わる」というのは、記号として与えられた知識を自分で内面化することです。多数の例や断片的な記述から、自分の中でその総体的なイメージを作り上げることです。

「多数の例や断片的な記憶」が私の述べる「データベース」に対応し、 「自分の中でその総体的なイメージを作り上げる」際に 私の述べる「状況を分析する能力」を用いて知識を「海馬から」読み出し、 読み出された知識の間の関係、関連を調べ、 体系付けるという内面的な行為を行っています。 あなたの述べた「内面化の行為」の基礎には、 私の述べた二つの要素がすべからく関わっています。
 わたくしは「生きた知識」を定義していません。 「生きた知識」すなわち「現実に活動している人間の認識、実践の能力」には、 「ソフトウェア」と「データベース」でモデル化できる側面があることが 見て取れるという観察事実を述べているだけです。 観察事実を述べているから、 あなたの「内面化の行為」を私が提示した言葉で説明できるのです。
 わたくしたちの間に「根本の食い違い」などどこにもありません。
 そこをわざと食い違っているかのように前提して議論を進められたので心外です。 あなたはわたくしが「問題解決能力」という語を用いたとき、 「問題」を「ペーパーテスト」の意味で解釈していませんか?
 わたくしの教師としての経験から言うと、 「わかりました」などと軽率に発言する学生ほど理解が浅いものです。

 わたくしはあなたの意見を尊重します。 しかし問題があると考えれば、批判をします。 わたくしはこの「反論」をあなたの意見を変えるつもりで発してはいません。 わたくしの意見を誤解されたので誤解を訂正していただくために申します。

[追伸] 「そのコタエは自分で見つけるものだよ」の真意は (なぜかここは誤解されていないのですが)「そんなクダラナイ質問はするな!」 という意味です。自然科学の教育では自然現象の理解が大切です。 「運動方程式とは何か」ではなく 「運動方程式の解が自然現象の理解をどう進めるか」を体得することが大切です。 そこのところであなたの自然科学のこれまでの勉学が うわすべりの浅薄なもので終わっていやしないかと推察しています。

No.481) 食い違いがないとわかってうれしいです iwatam(Fri Oct 15 22:11:13 2004)
あなたのおっしゃるように、私の読み取り違いでしたらよいのですが。
あなたのいう「問題解決能力」とは、「実際に動作する機器を作成する」こと、あるいは「正確なデータ出力の能力」であると私は解釈しました。それで、そうではないと申しあげた次第です。もしあなたの言う問題解決能力が「状況を分析して内面化すること」なのでしたら、その通りだと思います。
しかし、もし問題解決能力とは状況を分析して内面化することだとすると、作図して分度器で計るという行為はこれには当てはまらないでしょう。
一つわからないのは、あなたの上の意見を「反論」だと述べていることです。あなたは「わたしとの間に意見の食い違いはない」とおっしゃっています。つまりこれは「反論はありません」と言っていることではありませんか?
あなたが私と同意見なのであれば、私としてもうれしいところなのですが。
No.459) Administrator(Wed Sep 15 22:27:01 2004)
ハード寄りでありながら、CがJava, Perlよりも優先順位が低い理由を教えて下さい。
No.463) その理由は iwatam(Wed Sep 15 23:58:37 2004)
やはり、ハードをやるときはC以外にほぼ選択肢はありません。
なぜ優先度が低いかというと、一つは「趣味の話」であって、仕事の話はまた別だからです。仕事ではやっても、なかなか趣味でまでハードをやる余裕がないもので。もう一つは、趣味ではきちんとしたプログラムを作る気力がなかなか起きないからです。
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自己紹介のページはなんとなく書いたしょーもないページで、あまり深い理由はありません。こんな回答ですみません。
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