iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

[ ゲストブック ]
こちらはゲストブックの過去ログです。閲覧のみ可能です。

編集や削除のご要望がありましたら個別にやります。遠慮なくおっしゃって下さい。


No.507) サイバーパンクと思い出 エリー(Wed Dec 8 18:06:47 2004)
 こんにちはエリーです。おひさしぶりです。
 人前で意見を言うのをためらってメールを選ぶのは良くないと思うから、これからはなるべくゲストブックに書かせてもらいます。

 コラム「サイバーパンク」を読んで「死んでも生きている人の心の中で生き続ける」という言葉を思い出しました。私は同じ意味だと思うのですが、iwatamさんはどう思いますか?

 家族や友人など親しい相手だと「聞かなくても何と言うか分かる」ことが多いと思います。それは「相手の脳の神経細胞の興奮パターン」を理解しているからだと思います。

 電脳は元々人間の脳の模倣なので、電脳に出来ることは人間にも出来ます。自分の中に「他人の脳の神経細胞の興奮パターン」を作ることだって可能な筈です。そして一度学習した「脳の神経細胞の興奮パターン」は相手が死んでも消滅しません。相手の変化にも影響を受けず、自分の中に一つの思考ケースとして残ります。
 子供が最初に学ぶのは両親の思考パターンです。次に友人、恋人と範囲を広げていきます。歴史上の人物もあれば、架空の人物の思考も学習可能です。

 シナリオで人物を造形するというのは、思考パターンを作ることなのだと思います。現実の人間同様に、物語の人物達も経験から学習します。そこで起きる「思考パターンの変化」を見せるのがドラマなのかもしれません。

 カイというキャラクターを作り直す為のヒントを与えてくれる興味深い仮説でした。

No.513) おひさしぶりです iwatam(Fri Dec 10 23:03:22 2004)
とても面白い考え方だと思いました。
過去の偉人たちの伝記を読むごとに、私たちの頭の中で彼らが生きはじめるのでしょうね。あるいは、オタクの頭の中にはアニメ美少女が実際に住んでいるんでしょうか。
こんないいアイデアをゲストブックに書いてしまうと、誰かに盗作されてしまうかも・・・。小説が書けるんだったら自分で書きたいくらいです。急いだほうがいいかもしれません(笑
No.514) 全ては脳が見せている世界ですからね エリー(Sat Dec 11 22:41:35 2004)
「面白い考え方」というのは言葉通りに「面白い」と解釈していいのかしら?
 小さい頃、皆が同じ話題で盛り上がっているから、自分も参加しようとすると話が途切れてしまうという経験をよくしました。私は同意してくれるのを期待して言ったのに、「面白いね」といわれました。同じようには思わないと言われます。一生懸命考える程思わないと言われました。どうして会話を止めてしまうのか分からず、聞いているだけになっていきました。
 今は同意を求めて話している訳ではありません。それでもどう解釈していいのか迷います。だから一度聞いてみたかったんです。違う意見が悪い訳ではありませんから、会話を止めても気にしなければ良かっただけなのでしょう。

 リリィのラストは「カイの中のリリィ」です。「死んでも生きている人の心の中で生き続ける」と同じ意味で使っています。
 こういったテーマは概念です。概念自体は一つですが、解釈には差が生じます。同じ概念から具体的なドラマや小説を作っても違う話になると思います。ここに書いた概念に興味を持ってもらえたなら嬉しいし、どんな話が出来るのか興味があります。そんな連鎖が起きたら楽しいですね。
 iwatamさんは私とは全く違う表現を思い浮かべたようですね。どんなストーリーなのでしょう?

 たとえば「彼女は長い髪をしている」という認識方法だと、髪を切った途端に誰だか分らなくなります。実際そういう経験はありませんか? 服装を変えた途端誰だか分らなくなる。見た目も含めて相手ですが、身近な人は不思議と服装や髪型が変わっても誰だか分かるものです。
 優しい人が急に冷たくなった場合、「何か辛いことがあったのかしら? 本当は優しい人なのに」という「優しい」というイメージが続くことを「本人が変化しても自分の中の思考パターンは変化しない」と言っています。痴呆になってもイメージの中の親は元気な頃のままというのも該当します。病気でそうなったのであって、本人の本質が変化したとは思いませんよね?

 髪型や服装、肩書きなど「精神以外の部分」で覚えてもらっても、それらは移り変わってしまいます。死後に誰かの心に甦ることが出来ないものです。「どんな人だったの?」と聞かれて役職しか答えてもらえないのは寂しい気がします。
 コラムのまとめにあった「道具のメンテナンスやアップグレードが自己目的化しているところに違和感や空しさを感じる」を読んで寂しく感じた理由に納得しました。
 それでコラムを書かれたiwatamさんの感想が聞いてみたくなったのです。ユングの言う「無意識」にも似ていると思うのですが、どうでしょう?

No.516) ゆく川の流れは絶えずして iwatam(Mon Dec 13 02:19:39 2004)
「面白い」は言葉通りとってください。あまりにもなるほどと思ったので、何を言えばいいのかわからなかったのです。

私が思ったのはもう少しオタクっぽいことで、亡き妻を思うのもアニメ美少女を思うのもあまり変わりがないのかなぁ、といったところです。

「誰かの心の中で生き続ける」というのには、本物とは一つ違うところがあります。それは、変化しないということです。
本物の人間はだんだん変化します。だから、「昔はあんなに優しかったのに」という時、優しくないほうが本物であり、誰かの頭の中にある優しいほうは偽者(というよりは過去の姿)です。
「人間の本質は変化しない」というのは間違いです(とお釈迦様がおっしゃっておられました)。もっとも、これは突き詰めると「本質って何だ」という話になるんですが。
少なくとも、いつまでたっても思考パターンに変化がないというのはいかにも進歩がないような気がします。

そして、変化し続ける必要があるとしたら、変化した後のものは本当に前のものと同じなのか?という疑問がまたあります。
このへん高度に哲学的な話題になってしまいますね。

No.518) 哲学的話題だと最近知りました(長文失礼) エリー(Wed Dec 15 09:59:16 2004)
 ずっと日常会話としてしゃっべていました。しかも質問形で相手に問いかけて答えを求めていました。相手が「分からない」と言っても質問が分からないのかと問い詰めてしまったり……かなり周囲に迷惑をかけてしまいました。

 人間の思考が変化することには私も賛成です。変化しないのは「本質」ではなく「個性」という方が適当かもしれません。簡単に言えば「何を望むか?」です。仏教的には「業」かしら?
 何に対して価値を感じるかに思考パターンは影響されます。しかし価値観は変化しても、価値を感じる対象は変化しないと思います。
 「優しい人が冷たくなる」は思考パターンの変化です。しかしその根底には「優しくされたい」という願望があり、そう感じることは生涯続くほど強い感情だと思います。
 相手の希望が分からない時、自分がして欲しいことを相手にします。しかし相手も同じ希望を持っているとは限りません。違う場合は自分は一生懸命やっているのに、相手からは返してもらえません。して欲しいことは自分が詳しいことです。「他人に求めるのではなく提供出来ることなんだ」と最近は思うようになりました。自分について言えば、理解して欲しいから理解しようとするのだと思います。
 例えば人から褒められることが好きな人が「不特定多数からの絶大な支持」に価値を持っていたのが、「特定の人物からの好意」にも価値を感じるようになったのは思考パターンの変化です。褒められたいのに認めてもらえないから「認めてくれない相手を否定する」ことも、どうせおれなんかと「自分を否定する」ことも思考パターンの変化と言えます。しかし4つの思考パターンの中心に変わらずあるのは「人に認めたれたい」という気持ちです。この共通部分を指して「個性」と言っています。
 認められたいから人に優しくしていたのが、受け入れられなくて冷たい態度を取るようになっても、認められたいという気持ち自体はなくなりません。だから「本当は優しい人なのに」ではなく「本当は優しくできる人なのに」と言う方が適切かもしれません。

 痴呆にかかると理性で抑えられていた欲望がストレートに出てくるそうです。子供など周囲のことを思って行動していたのが、理性が働かなくなり幼児の様な自己主張をし始める。しかし配慮が出来なくなっても、子供の頃に親にしてもらった思い出は変化しません。そして自分に主張がなければ良くも悪くも親と同じ態度を取ります。どうすればいいのか分からないけれど何かしなくてはいけない時、人は何かを模倣するからです。だから虐待も愛情も連鎖するのだと思います。そう考えると、この例の場合は「本質」ではなく「記憶」が適当だったかもしれません。

 「誰でも人に認められたいと思う筈」と反論されるかもしれません。確かに否定されるより肯定されたいと思うでしょう。しかし重要度は人によって異なります。私はそういう気持ちが弱く、自分が思った通りに行動してしまいます。「認めてもらうこと」より「知りたい」という気持ちが強いです。それは分からないことに対する恐れや不安の形となって表れます。自分で考えることを覚えるまでは、他人を問い詰める悪い面が目立ちました。質問ではなく答えが分からないと言っていることに気付き、分からないと疑問に感じる自分が考えればいいのだと知りました。

 個性によって出来ること・分かることはある程度決まります。個性は力の向きであり、働く場所です。力そのものに意志はありません。使う人間次第で良くも悪くもなります。自分を知って力をコントロール出来るようになれば意識してよい面を出せるようになります。そうなると違う個性の集まりでも似たような結論に落ち着きます。そしてその結論を実行する為に個性によって役割分担が自然と決まります。それが面白い群像劇を書く秘訣のような気がします。私にはまだ無理なんですが。

 「固定した思考パターンとして人物を描くのか」「生涯続く強い感情に左右される個性を持った人間として描くのか」は、コラム「おたくの歴史」に出てくる「4.9キャラクターという概念の発明」と関連する話だと思います。
 出世欲が強いなど、持っている個性は生涯変わりませんが、経験によって思考パターンは変化していきます。変化の過程を描いた場合、ストーリーと人物を切り離すことは出来ません。何が起ころうといつでもおんなじ反応を返すキャラクターの場合、経験による変化はありません。

 「亡き妻」と「美少女アニメのキャラ」に対する気持ちが同じなのは、「誰かを愛し・愛されたい」という欲望が共通しているからだと思います。アニメキャラ同様、死んだ人はもう変化しません。しかし生きている間は変化した筈です。もしそのアニメキャラが文脈から切り離されたキャラクターであるなら、妻が変化した過程そのものを愛するのか、キャラクターが返す特定の思考パターンを愛するのかに違いがあると思います。
 娘は褒められることが好きです。だから盛んに人を笑わせようとします。しかしいつも上手くいくとは限りません。私に拒絶されて怒ることもあります。強情なので嫌な理由に納得するまでどんなに嫌がってもやめません。理由を説明するのはめんどくさいけれど、判断できるようになる為には必要な過程なのだと思えるようになりました。子育ての醍醐味はそういった「思考パターンの変化を見れること」かもしれません。出来ないことが出来るようになるとか、分からないことが分るようになるとか、アイドルの追っかけも基本的に同じだと思います。成長していく様子がみたいのだと思います。
 「本当の自分」や「ありのままの私」も「特定の思考パターンではなく個性」という意味なのかもしれません。「美しい容姿」や「同じことを面白いと感じる」といった特定の状況を求められ、愛されようとそれを維持するから人間関係が辛いのかもしれません。私自身はありのままにしか振舞えない性格なので想像です。何を求められているのか分からず困ることはあっても、期待に答え続けるのが辛いという経験はありません。

 長くなってしまいました。多様性がもたらす豊かな世界を書く為に「自己実現」や「個性」について調べているところなので、私にとっては興味深い話題です。iwatamさんがよければもう少し会話を続けたいのですが、いかがでしょうか?
 賛同いただけるなら、キャラクターと個性の関係について意見を聞かせていただけませんか?
※「業」ではなく「煩悩」の方が近いかもしれません。

No.520) 少し遅れましたが返答 iwatam(Wed Dec 15 16:22:49 2004)
私は哲学的な話は大好きなので喜んでのりますが、中には嫌いな人もいるかもしれません。
ここに関してはこういう話題は大歓迎ですのでご心配なく。

あなたのいう「個性」が生涯変わらないか、というところも私は疑問に思っています。おそらく変わるのではないかと。
「人に認められたい」という気持ちが、「人に認めてもらわなくても問題ない」に変わってもおかしくないと思うのです。
とすると、生涯変わらないものは何か。私は「ない」と結論づけます。

しかし、「変わらないもの」はないと結論づけますが、「ほとんど変わらないもの」はあると思います。「変わる」と「変わらない」に二分するのではなく、「やや変わる」「なかなか変わらない」という程度問題だということです。
だから、個性と思考パターンは完全に分離できるものではなく、すべては個性と思考パターンの中間にあるものと思われます。

と言っておいて何ですが、もしかしたら個性とは「思考パターンの変化のパターン」なのかもしれません。そうすると「思考パターンの変化のパターンの変化のパターン」ももしかしたらあるのかもしれません。
----
という話をした後で突然小説の話ですが、私がなんだかなぁと思う小説には、この、変わるものと変わらないものの絶妙なバランスが足りないことが多いです。
たいていは「変わらない」ことが多いですが、ある出来事を境にがらりと別の個性に「変わって」しまったりします。これが唐突で違和感を感じてしまいます。
なるほど、今のキャラクター重視の小説が肌に合わないのはこういうわけだったんですね。私は人の「変化」を見たいのであって、人の思考パターンを見たいのではない、と。そのためには話が時間的に連続していなくてはならず、ストーリーが欠かせないというわけです。

----
ただ、「思考パターンは変わるものだ」としてしまうと、そこに正当性がなくなってしまいます。
例えばキャラクター小説では、下手に書くと「こいつの性格ではこんなことはしないだろ」と言われます。しかし本物の小説では、性格は変わるものなのでそれもアリになってしまうわけです。しかし、下手に書くと読者に違和感を感じさせます。
キャラクター小説の場合、「性格は変わらない」という一つのルールであって、その通りに書けばOKなわけです。しかし、本物の小説では、ルールはないはずなのに下手に書くと違和感が生じます。そこが難しいのだと思います。
理由もないのになぜ違和感を感じるのか、そこは非常に難しいところです。

No.521) 誤解を恐れず想像するなら エリー(Thu Dec 16 10:47:44 2004)
 話を続けることが出来て嬉しいです。ありがとう。
 あのあと少し調べたところ、「人に認められたい」という気持ちが「煩悩」で「人に認めてもらわなくても問題ない」が「悟性」のような気がします。
 自分を例に上げれば誰も傷つけませんから、自分に関して話しますね。
 私は自分の意見を人に理解してもらいたかった。皆と同じように「そうだね」と言って欲しかった。でも言ってもらえない。だから「どうして?」と問い詰めてしまう。
 でも同意されなくても困らないのです。「面白い」と言わせたくて仕方ない人には私が何を悩んでいたのか分からないと思います。他人と違う意見を持つというのは「オリジナリティがある」ということなのでしょう。それはシナリオライターを目指す上で利点です。しかしいつも「違う」と言われることはとても寂しいことです。でもiwatamさんも私とこうして話を続けてくれるのですから、同じでなくても気にしなくてもよかったのです。
 「ではあなたは悟りを得たの?」と聞かれると困るのですが、確かにそれが分かってから私は以前のようにイライラしなくなりました。
 私を育ててくれた人が「理解を求めず説明しなさい」と繰り返し教えてくれていたのだけど、私には何を説明すればいいのか分かりませんでした。何故違う意見になるのか「思考過程を言えばいいのだ」と気づくまで、質問を繰り返すことしかしていませんでした。
 次に「個性は変わるか?」という問題ですが、私の意見は「変わらない」です。私が思いついたことは生涯同意されないと思います。けれど、学習することは出来ます。この学習が「リリィ」のもう一つのテーマです。最初の「サイバーパンク」に話題が戻りますが、「他人の神経細胞の興奮パターン」を覚え、「あの人ならこういうだろう」と考えることで自分ひとりとは違う結論を出すことです。
 「カイの中のリリィ」というのは、リリィが死んでもカイが「リリィならどうするだろう?」と思い出すという意味です。
 カイはハムレット型思考の持ち主で、「やるべきか・やらざるべきか」で悩みます。リリィは「やりたい!」と思った通りに行動するので「やる・やらない」で悩みません。「どうやるか?」しか考えません。けれど「やる・やらない」の中には実行した場合のリスクが含まれています。それを考えないリリィには「実行する際の注意点」が分かりません。リリィは生涯馬鹿なままで学習しませんから、そこをカイが補い旅をしていきます。カイはリリィの「リスクを恐れず自分の望む方を選ぶこと」を学習していきます。
 以上から「面白いドラマでは個性の吸収が起きている」が私の結論です。
 私が「何故?」と思わなくなることはありませんが、聞かずに人の真似をして考えることは出来ます。知っている人間(個性)が増えるほど、様々な点を考慮して結論を導き出せるようになると思います。しかし集団のなかで私に求められる役割は「する」の主張で、結論を出すことではありません。「する・しない」で迷う人と比べれば劣った答えしか出せないからです。
 判断がつかない私にとって、「する・しない」で迷う人に不可能なことなどないのではないかと思えます。しかし迷わない私には簡単な「自分の気持ちに忠実に行動すること」が難しいのだと知りました。つまり「出来ない理由」を言われて反論できないからと黙ってしまっては役割を果たせない。そういう意味でカイに主張を譲らないリリィは役割を果たしているのだと思います。でもカイの方は個性が描けてませんから、そこを何とかしたいのです。
 そんな訳で「自己実現」や「個性」について研究中なのです。
 もしカイが「悩んだ上で結論を出す」のではなく、リリィのように「何も考えずに行動する」に変われば「おかしい」と感じる筈です。iwatamさんの言う「違和感」は、「カイがリリィになってしまうこと」だと思うのですがどうでしょう?
No.524) まだ少し考えがまとまっていないところはあるのですが・・ iwatam(Fri Dec 17 02:38:51 2004)
私は、人と意見は違っていていいのだ、むしろ違っているほうがいいのだと肝に銘じて日々やっております。わざわざ肝に銘じるということはなかなかそう思えないということなんですけれど。
「カイの中のリリィ」の話をしますと、カイは「リリィならどうするだろう?」と考えます。普通はそこでおしまいではなく、「リリィだとこうするだろうから、勇気を出して僕もやってみよう」と思うでしょう。
すると、これは考えるパターンが変わったわけで、これを「個性の吸収」と呼ぶか「思考パターンの変化」と呼ぶか、はたまた「個性の変化」と呼ぶか、これは言葉の定義の問題なのであまり重要ではありません。とにかく、あなたの言うような何かが変わるということです。
----
私の違和感をもう少し考えてみましたが、これは変わろうという意思を持っていないことに対するものです。「リリィは生涯バカなままで学習しません」と書いておられますが、そんな人は実際には存在しないでしょう。うまく行かなかったときには自分なりに考えるでしょうし、少しは他人を見習ってうまくやろうと考えるでしょう。
もちろん、問題だと思っていないことに対しては変わろうとも思いません。しかし、問題だと思ったことに対しては変わろうと思うはずです。それがないといかにも作り物っぽく感じるのです。
人間は常に「変わろう」と思っていて、例え行動は変わらなくても内面は徐々に変わっていきます。そして、その変化がある一定値を超えたところで初めて行動になって現れます。そうすると「突然逆ギレした」みたいに見られるわけです。
そういう微妙な内面を書くのは難しいことだと思いますが。
----
「自分の気持ちに正直になる」というのは簡単なようで難しいことです。
何でもやりたいことだけをやっていれば簡単かもしれません。しかし、そこに「本当に自分がしたいのはそんなことなのか?」という疑問が出てくると、とたんに難しくなってきます。
毎日うまいものを食べて寝て起きてテレビでも見て、という生活は確かにしたいとは思いますが、きっとそれをずっと続けていたらそのうち「本当はこんなことがしたいんじゃない」と思えてくるでしょう。
やりたいことが一つしかなければそれをやればいいのですが、もしやりたいことが複数あってそれが両立できないとき、どうするかを悩むことになります。そんなときに「本当はどっちがやりたいんだ?」と考えることになります。
やるかやらないかで悩んでいるように見えますが、実は、それをやるか他のことをやるかで悩んでいるのだということです。
No.525) 補足です エリー(Fri Dec 17 05:50:56 2004)
 ごめんなさい、自分だけが知っている設定で話してしまいました。リリィが変わらないのは死ぬからです。カイについては指摘の通り成長します。主人公のカイに対して「リリィとの出会いと別れが与えた変化」なのでタイトルが「リリィ」なんです。
 南国生まれのリリィは寒さに弱いです。でも、雪が見たいと主張を譲りません。ケンカしてやっと仲直りしたばかりなので、危険だと分っていたけれどカイは最後まで反対仕切れません。そして心配した通りに死んでしまいます。判断ミスでリリィを失ったことを乗り越えるのが物語のラストです。リリィなら「行きたいところへいけばいい」と答えるだろうと考え、まだ見ぬ場所へカイは再び旅立ちます。失敗を悔やむより、リリィが望むように思い通りに自分らしく生きることを選びます。
−−−
 もし笑わせようと思って笑ってくれたなら嬉しいでしょう。でも真面目に考えたことを笑われたら嫌ではありませんか? それが現実的ではなく馬鹿げた考えだから面白いと笑うのですよね?
 「皆が言うだろう意見を分かった上で違う意見を言う」のと「それしか思いつけない」ことは違います。私には「皆が思うだろう意見」は学習しないと分からないのです。両方分かるようになるまでは利点ではなく欠点です。シナリオの為だけではなく、なんとかしないと生活する上で困るから真剣になるのです。
−−−
 やりたいことが一つしかなければ悩まない……そうかもしれません。一つのことで心が占められてしまえば悩む必要はありません。
 いいとこどりをしようとしない。どちらかに決めてしまう。それって潔いように見えて最善策が出てこない愚かな行為なんです。どっちもかなえる方法を考えてみることが必要というのが最近学習したことです。
 分かってもなかなか出来ない理由が分かりました。一つのことに心が占められて他が見えなくなるからだと思います。一つなら悩まないという指摘に納得してしまいました。冷静になる必要があるのでしょう。
−−−
 発見が目的なので結論は出なくてもよいのですが、もう少し原因を追究したいですね。しかし私も考えが上手くまとまりません。少し時間をおきましょうか?
―追加―
 問題と思ったことは変わろうと思う筈……アンチから入って問題であると表現しないと納得いかない?……やはりまとまりません。性格描写と関係ある重要なことだと思うので、もう少しよく考えてみます。
No.506) はじめまして。司会の仕事をしています。 山口ゆきこ[HOME](Wed Dec 8 17:16:16 2004)
仕事柄、言葉や日本語にはとても興味があります。「敬語は相手を敬う言葉ではなく、自分と相手との距離を表す言葉である。」とのご指摘、わたしもまったく同感です。
「変わりゆく日本語」について思うことや「イベントの舞台裏」などを、わたしも、自身のホームページで紹介しています。お時間の許されるときにでもご覧頂けましたら幸いです。

ホームページ「YUCKY's STUDIO」
http://www.yuki-enterprise.com/
blogサイト「YUCKY's STUDIO Blog」(開設したばかりです)
http://yuckys.exblog.jp

No.512) はじめまして iwatam(Fri Dec 10 22:47:01 2004)
言葉のプロの方ではありませんか!お恥ずかしい。

私は敬語や言葉遣いは苦手なほうなので、いろいろお叱りを受けなければならないような気がします。ホームページも拝見しました。いろいろ勉強になりました。

No.496) コラム:日本人の宗教嫌い ほげげん(Fri Dec 3 18:08:27 2004)
コラム拝見しました。感想です。

コラムでは
「絶対を信じていなければ仏教徒」
のような表現をしていますが、疑問を感じています。

仏教徒とは
仏教を学び、その教えを念頭において思想や行動する人
ではないのかと思います。
(つまり学んだだけでは仏教徒ではない)

私は「絶対を信じていない」ですが、その思想は日常生活で得られたあらゆる情報から導きだしたものであり、仏教の事はまったく頭にありませんでした。

宗教を批判する気は無いですが、やはり信者になりたいとは思いません。

No.497) 信仰とは iwatam(Fri Dec 3 23:53:13 2004)
日本人には、長い仏教の伝統があります。だから、仏教は日本的な考えの奥にもう染み付いてしまっているわけです。日本古来からある考え方やことわざ、教えの中には仏教由来のものがたくさんあります。そして、そういうものを聞いて育ってきた私たちの心の奥底にも既に仏教は染み付いてしまっています。
 あなたが「日常生活で得られた」と思っている情報のある部分は、あなたがそれを仏教のものだと知らないだけで、実は仏教のものです。だから、あなたは知らず知らずのうちに仏教を学び、一部は実践してしまっているわけです。それなのに「仏教を信じたくない」と言うのがおかしいのです。あなたの頭の中には仏教の概念は既にあり、ただそれに仏教という名前がついていることを知らなかっただけなのではありませんか?
----
なぜあなたは、自分が仏教徒であることをことさらに否定しようとするのでしょう?
あなたが本当に仏教の考え方に反対で、それで信者であることを否定するならあなたの言うとおりです。しかし、あなたは仏教の考え方に賛成なのに信者と呼ばれることには反対しているように見えます。だとするとこれはおかしいのです。
私は、「信者」あるいは「信仰」という言葉の意味の使い方が違うのだと思いますが、いかがでしょうか?
No.498) Re信仰 ほげげん(Mon Dec 6 11:54:13 2004)
返事がおくれました。すいません。

私が「絶対を信じない」ようになったのは
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
、、他にもあるような気がしますが、大きい所ではこんな所です。
こういったものの背景に仏教はないと思います。
また、この考えは誰から教えられたり聞いたりして学んだ覚えがありません。

あと仏教にも仏陀や釈迦や仏、無の境地など否定する部分や理解できない部分もたくさんあります。

仏教の考え方に賛成(前述するとおり反対部分もあるが)できる所もありますが、
それで「あなたは仏教徒です」というほうが、おかしく思えます。

人によって「信者」「信仰」って言葉の意味は結構違う物ですね。
辞書によっても内容が違ってたりするみたいです。
なので、人によって「信者」「信仰」に対する考え方は違っても良く、
誰かが決めなくてもいいのではないのでしょうか?

No.499) お返事は気の向いたときにどうぞ iwatam(Wed Dec 8 00:14:42 2004)
あなたは、誰かから教えられたり聞いたりして学んだ覚えはありませんとおっしゃっていますが、本当ですか?
法話として直接聞いたことはないかもしれませんが、いろいろな文章や会話によって、その人の考え方はじわりと伝わっていきます。だから、あなたの考えに誰か他の人の考えの影響がないとは言えないはずです。
もしあなたがずっと外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなかったのなら、あなたは仏教徒であるとはいえないでしょう。

仏教徒というのは、「仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」ではありません。この定義だと、修行中のお坊さんは仏教徒ではないことになってしまいます。理解できないから仏教徒ではないというのはおかしいのです。
それに、仏教という教えは全体で一つのまとまった考え方です。すべてが論理的につながっていますから、ある部分だけを否定してある部分を肯定することはできません。もしある部分だけがおかしいと思うなら、それは方便ととらえるべきです。
結局、仏教徒とは何かというと、仏教の教え(=「絶対は存在しない」という考え方)には深い真実があるのではないかと思う人のことです。

私が奇妙に感じたことを例え話で語ることをお許しください。人が音楽にのって踊っているのを見て、「それはダンスというもので、あなたのような人はダンサーと呼ばれます」と言ったのに対して、「私はダンスなど習ったこともないし、ダンサーでもない」と言われたようなものです。

「信仰という言葉の意味は人それぞれ」はその通りではあるんですが、それを言ってしまうと対話が成り立たなくなってしまいます。私はこういう意味で信仰という言葉を使いますと説明しました。あなたがどういう意味でこの言葉を使っているのかはわかりませんが、私の意見を誤解したままでいてほしくはないと思っています。

No.500) 返答ありがとうございます。 ほげげん(Wed Dec 8 11:42:37 2004)
返答ありがとうございます。

繰り返し書きますが「絶対を信じない」を誰かから教えられたり聞いたりして学んだ覚えがないというのは本当です。
前述したように
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
が大きなところで、これに仏教と何の関わりがあるのでしょうか?

誤解されているようですが
「仏教徒というのは仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」
とは思ってないですよ。
私が言いたいのは仏教に局所的にしか賛成できておらず、しかもその賛成する動機(発端)のほとんどに仏教が見当たらない。それで仏教徒はおかしいと思うということです。

「仏教の教え」=「絶対は存在しない」
という解釈が私の疑問の核心ですね。
「仏教の教え」の中に「絶対は存在しない」が
あるわけでイコールではないですよね?
また「絶対は存在しない」という考えは仏教を通さずに学べますよね?

「信仰という言葉の意味は人それぞれ」っていうのは失言でしたね。ごめんなさい。

No.501) 失礼を承知で iwatam(Wed Dec 8 15:50:42 2004)
あなたがおっしゃる「絶対を信じない」理由は、仏教との関係はないどころか、それこそが仏教ともいえるものです。
釈迦も、現実の厳しさに直面し、理不尽なことばかりに直面し、戦乱の世の中を見て、そこから仏教という考え方に到達したのです。
つまり、あなたは(知らず知らずのうちに)釈迦の歩んだ道と同じ道を歩んでいます。「仏教」という言葉は、その道のことをさします。だから、あなたの歩んでいる道は仏教なのだと言いました。

専門用語で言えば、仏教の三大原理は諸行無常(=絶対は存在しない)、諸法無我(=だから絶対不変の自我も存在しない)、涅槃寂静(=だから、過去や未来をあれこれと思いわずらっても無駄だ)の3つです。諸行無常が最初にあり、後の2つは「だから」でつながっています。だから、諸行無常こそが仏教の根本理念であり、あとの2つはそこから論理展開によって導き出されたものです。
つまり、「仏教の教え」=「絶対は存在しない」です。
----
「仏教を通して学ぶ」というのは変な言い方です。仏教は何かを学ぶ方法ではなく、対象である「何か」だからです。
だから、「仏教を学ぶ」という言い方でないとおかしいのです。「お経を通して仏教を学ぶ」とか「お寺を通して仏教を学ぶ」のように。
もちろん、仏教を学ぶには、仏門に入る必要も坊さんの法話を聞く必要もお経を読む必要もありません。「何も通さず仏教を学ぶ」もあり得ます。ただ、これは仏教を学ぶ近道ではありませんが。
----
失礼を承知でお聞きします。あなたは、仏教とは何だと考えていらっしゃるのでしょう?

No.502) ほげげん(Wed Dec 8 15:17:03 2004)
それこそ、
外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなくても、「絶対は信じない」ならば、あなたは仏教徒である。
といっているようにしか思えないんですが?
----
私が
「絶対は存在しない」という考えは仏教を通さずに学べますよね?
と言ったのは、超常現象を論理で解き明かす科学番組とかを見ても、「絶対は存在しない」と思うこともある。ということです。
「仏教を通して学ぶ」
って変ですかね?
「お経を通して仏教を学ぶ」
「お寺を通して仏教を学ぶ」
も私には違和感ないんですけど・・・
----
「仏教」とは「仏陀が説いた教え」のことです。
「絶対を信じない」とは「絶対を信じない」のことです。
No.503) ほげげん(Wed Dec 8 15:28:25 2004)
あ!なんか読み違えた部分がありました。すいません。
以下の部分は飛ばしてください。
--
「お経を通して仏教を学ぶ」
「お寺を通して仏教を学ぶ」
も私には違和感ないんですけど・・・
--
No.504) 繰り返しになりますが iwatam(Wed Dec 8 16:08:22 2004)
繰り返しになりまして申し訳ありません。

「仏教=絶対は存在しないという考え方」なので、「絶対は存在しないという考え方は仏教を通さずに学べる」というのは「仏教は仏教を通さずに学べる」といっているのと同じことです。これは変です。
「仏教を通して学ぶ」といった場合、何を学ぶのですか?

----
その通り、外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなくても、「絶対は信じない」ならば、あなたは仏教徒です。
私が疑問を投げかけたのは、あなたが「他の影響を受けていない」と言っていたことに対してであって、受けていようがいまいがそれが仏教であることとは実際は関係がありません。
もし本当に独自に釈迦の境地にまで至ったのであれば、それは非常にすばらしいことです。
----
仏教は「仏陀の説いた教え」であるというのは、間違ってはいませんが定義が変です。これだと、仏陀が説いたことはすべて仏教になってしまいます。仏陀は仏教も仏教以外のこともいろいろ説いたでしょう。その中で、「絶対は存在しない」に連なる一連の教えを仏教と呼んでいるのです。
万有引力の法則を「ニュートンが発見した法則」と定義するのが変であるように、仏教を「仏陀の説いた教え」と定義するのは変なのです。

No.505) ほげげん(Wed Dec 8 16:38:46 2004)
なんか大仰しい言い方になるのですが
仏教を通して愛を学ぶ
仏教を通してモラルを学ぶ
他にもまだまだありますが、とりあえずこの辺で。
--
iwatamさんはNo499では(以下引用)
----
もしあなたがずっと外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなかったのなら、あなたは仏教徒であるとはいえないでしょう。
----
と発言しています。いきなり正反対のことを言われてちょっと驚きました。iwatamさんの真意がどうも読めません。
--
「仏陀の説いた教え」はちょっと漠然でしたね。
改めて、
仏教とは
紀元前5世紀頃、インドで「仏陀」を開祖とし旗揚げした宗教です。
No.508) こちらから質問です ほげげん(Thu Dec 9 17:41:56 2004)
iwatamさんは「絶対は信じないという思想」(またそれを含めた思想)と「仏教」を同一視してるのですね?
「絶対を信じないという思想は仏教の根本思想の一つ」
これの「絶対を信じないという思想」を「仏教」に置き換えると
「仏教は仏教の根本思想の一つ」
になってしまいます。
また「仏教」を「絶対を信じないという思想」に置き換えると
「絶対を信じないという思想は絶対を信じないという思想の根本思想の一つ」
となります。
そもそも「仏教の三大原理は諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」と言った
時点で「仏教」とは別の「事」ではないのですか?
No.509) すみません iwatam(Thu Dec 9 22:27:15 2004)
すみません。おっしゃるとおりです。
前言は間違いでした。
仏教とは考え方のことなので、その道筋はどうあれ、同じ考え方なら同じものです。
だから、No499は間違いです。

----
仏教の3大理念を書きましたが、これは3つが別々にあるのではなく、すべては一つのことなのです。一つのことを3つの違う言い方で言い表しただけなのです。
だから、これらを一つだけ抜き出して話をすることはできません。
「諸行無常」は「仏教」の説明文ですから、当然のことながら別のものではなくて同じものです。

----
あなたは「仏教とは何か」という問いに対して、中身に一切触れないで答えをしています。そんな答えには意味はありません。
仏教とは、紀元前5世紀頃、インドで「仏陀」を開祖として旗揚げした宗教であり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3大原理からなるものであり、その中でも根本になるのが諸行無常、つまり「絶対は存在しない」という教えなのです。
あなたがそういう形で仏教をどう定義しようと、それは今回の話とは何の関係もありません。

No.510) ほげげん(Fri Dec 10 13:01:43 2004)
No499の訂正、了解しました。
iwatamさんの真意は
「仏教という認識がない(外国で生まれ日本的なものの考え方に接する機会がない等)。それでも絶対を信じなければ仏教徒である。」
ということですね。
--
どうやら先の質問の意味が理解できていないようですね。
この質問では仏教の原理がいくつあるというのは問題ではありません。(事実3つの原理だから言っただけ)
「なぜ仏教は3つの原理からなるのか?」とは問うていません。
「xの原理はy」と言ってしまえば、「x」と「y」は違う物にならないのか?と問うているのです。
改めてお答え頂きたいです。
--
私の答えに意味はなかったですか。
iwatamさんのおっしゃるよう「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3大原理からなるもの」という
認識はあります。(これも言えば良かったのですね。)
No.515) 「原理」という文の意味 iwatam(Sun Dec 12 13:40:19 2004)
「xの原理はy」というのは、ここでは「yであるものをxと呼ぶことにしましょう」ということです。
だから、xとyは同じものです。

yはものの名前ではなく、文章であることに気をつけてください。

No.517) なるほど ほげげん(Mon Dec 13 13:56:56 2004)
なるほど。
iwatamさんが何を言いたいのか、なんとなくわかったような気がします。

例え話になり申し訳ないのですが、、
「仏教は絶対を信じない思想」を「電球は電気を使った明かり」とします。
iwatamさんの見解では
「電球」は電気を使い照るから「電球」=「電気を使った明かり」である。
となり、私の見解では
「電気を使った明かり」は「電球」だけに限らない。
となり、ここで大きな食い違いがあるみたいですね。
「電気を使った明かり」は私にとっては、カテゴリととらえています。
iwatamさんにとっては、その物の説明ととらえているのでしょうか?
(勝手に憶測した事、ご容赦ください。違うようでしたら気軽に
 ご指摘頂けたらと思います。)

No.519) 例え話へのつっこみで申し訳ありませんが iwatam(Tue Dec 14 03:17:28 2004)
あなたの意見を見て、私が言いたいことはだいたい伝わっていると思いました。

上の例で言えば、「電球」と言うより「電灯」と言った方がより私の言いたいことに近いです。
「電灯は電気を使った明かり」です。「電気を使った明かりは電灯だけではない」というのはなんか変で、蛍光灯だろうがLEDだろうがそれは電灯だろ、と言いたくなるわけです。
「電気を使った明かり」はカテゴリ(=概念)であり、「電灯」というのはそのカテゴリを一言で表すための名前です。
同様に、「仏教」というのもカテゴリをあらわす名前です。

No.527) やっぱりちがうような・・・ ほげげん(Fri Dec 17 13:18:23 2004)
返事がおくれすみません。

やっぱりiwatamさんの言いたいことを理解できてないようです。

「絶対はない思想」の名前は「仏教」なのですか・・・質問しようかと思ったのですが、どうやら始めの質問に戻ってしまいます。

なんか他の方からも似たような質問がゲストブックに出されているようですね?
私とiwatamさんの議論はややつまり気味かな?と思いますので、私はとりあえずそちらの議論を観たいと思います。(不躾ながらそちらにコメントを出すかもしれません。)

ご親切にご返答・ご質問いただけたこと、とても感謝しています。

過去記事はこちらから: [0] [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100] [101] [102] [103] [104] [105]