編集や削除のご要望がありましたら個別にやります。遠慮なくおっしゃって下さい。
No.507) サイバーパンクと思い出 エリー(Wed Dec 8 18:06:47 2004) |
コラム「サイバーパンク」を読んで「死んでも生きている人の心の中で生き続ける」という言葉を思い出しました。私は同じ意味だと思うのですが、iwatamさんはどう思いますか?
家族や友人など親しい相手だと「聞かなくても何と言うか分かる」ことが多いと思います。それは「相手の脳の神経細胞の興奮パターン」を理解しているからだと思います。
電脳は元々人間の脳の模倣なので、電脳に出来ることは人間にも出来ます。自分の中に「他人の脳の神経細胞の興奮パターン」を作ることだって可能な筈です。そして一度学習した「脳の神経細胞の興奮パターン」は相手が死んでも消滅しません。相手の変化にも影響を受けず、自分の中に一つの思考ケースとして残ります。
子供が最初に学ぶのは両親の思考パターンです。次に友人、恋人と範囲を広げていきます。歴史上の人物もあれば、架空の人物の思考も学習可能です。
シナリオで人物を造形するというのは、思考パターンを作ることなのだと思います。現実の人間同様に、物語の人物達も経験から学習します。そこで起きる「思考パターンの変化」を見せるのがドラマなのかもしれません。
カイというキャラクターを作り直す為のヒントを与えてくれる興味深い仮説でした。
No.513) おひさしぶりです iwatam(Fri Dec 10 23:03:22 2004) |
No.514) 全ては脳が見せている世界ですからね エリー(Sat Dec 11 22:41:35 2004) |
リリィのラストは「カイの中のリリィ」です。「死んでも生きている人の心の中で生き続ける」と同じ意味で使っています。
こういったテーマは概念です。概念自体は一つですが、解釈には差が生じます。同じ概念から具体的なドラマや小説を作っても違う話になると思います。ここに書いた概念に興味を持ってもらえたなら嬉しいし、どんな話が出来るのか興味があります。そんな連鎖が起きたら楽しいですね。
iwatamさんは私とは全く違う表現を思い浮かべたようですね。どんなストーリーなのでしょう?
たとえば「彼女は長い髪をしている」という認識方法だと、髪を切った途端に誰だか分らなくなります。実際そういう経験はありませんか? 服装を変えた途端誰だか分らなくなる。見た目も含めて相手ですが、身近な人は不思議と服装や髪型が変わっても誰だか分かるものです。
優しい人が急に冷たくなった場合、「何か辛いことがあったのかしら? 本当は優しい人なのに」という「優しい」というイメージが続くことを「本人が変化しても自分の中の思考パターンは変化しない」と言っています。痴呆になってもイメージの中の親は元気な頃のままというのも該当します。病気でそうなったのであって、本人の本質が変化したとは思いませんよね?
髪型や服装、肩書きなど「精神以外の部分」で覚えてもらっても、それらは移り変わってしまいます。死後に誰かの心に甦ることが出来ないものです。「どんな人だったの?」と聞かれて役職しか答えてもらえないのは寂しい気がします。
コラムのまとめにあった「道具のメンテナンスやアップグレードが自己目的化しているところに違和感や空しさを感じる」を読んで寂しく感じた理由に納得しました。
それでコラムを書かれたiwatamさんの感想が聞いてみたくなったのです。ユングの言う「無意識」にも似ていると思うのですが、どうでしょう?
No.516) ゆく川の流れは絶えずして iwatam(Mon Dec 13 02:19:39 2004) |
私が思ったのはもう少しオタクっぽいことで、亡き妻を思うのもアニメ美少女を思うのもあまり変わりがないのかなぁ、といったところです。
「誰かの心の中で生き続ける」というのには、本物とは一つ違うところがあります。それは、変化しないということです。
本物の人間はだんだん変化します。だから、「昔はあんなに優しかったのに」という時、優しくないほうが本物であり、誰かの頭の中にある優しいほうは偽者(というよりは過去の姿)です。
「人間の本質は変化しない」というのは間違いです(とお釈迦様がおっしゃっておられました)。もっとも、これは突き詰めると「本質って何だ」という話になるんですが。
少なくとも、いつまでたっても思考パターンに変化がないというのはいかにも進歩がないような気がします。
そして、変化し続ける必要があるとしたら、変化した後のものは本当に前のものと同じなのか?という疑問がまたあります。
このへん高度に哲学的な話題になってしまいますね。
No.518) 哲学的話題だと最近知りました(長文失礼) エリー(Wed Dec 15 09:59:16 2004) |
人間の思考が変化することには私も賛成です。変化しないのは「本質」ではなく「個性」という方が適当かもしれません。簡単に言えば「何を望むか?」です。仏教的には「業」かしら?
何に対して価値を感じるかに思考パターンは影響されます。しかし価値観は変化しても、価値を感じる対象は変化しないと思います。
「優しい人が冷たくなる」は思考パターンの変化です。しかしその根底には「優しくされたい」という願望があり、そう感じることは生涯続くほど強い感情だと思います。
相手の希望が分からない時、自分がして欲しいことを相手にします。しかし相手も同じ希望を持っているとは限りません。違う場合は自分は一生懸命やっているのに、相手からは返してもらえません。して欲しいことは自分が詳しいことです。「他人に求めるのではなく提供出来ることなんだ」と最近は思うようになりました。自分について言えば、理解して欲しいから理解しようとするのだと思います。
例えば人から褒められることが好きな人が「不特定多数からの絶大な支持」に価値を持っていたのが、「特定の人物からの好意」にも価値を感じるようになったのは思考パターンの変化です。褒められたいのに認めてもらえないから「認めてくれない相手を否定する」ことも、どうせおれなんかと「自分を否定する」ことも思考パターンの変化と言えます。しかし4つの思考パターンの中心に変わらずあるのは「人に認めたれたい」という気持ちです。この共通部分を指して「個性」と言っています。
認められたいから人に優しくしていたのが、受け入れられなくて冷たい態度を取るようになっても、認められたいという気持ち自体はなくなりません。だから「本当は優しい人なのに」ではなく「本当は優しくできる人なのに」と言う方が適切かもしれません。
痴呆にかかると理性で抑えられていた欲望がストレートに出てくるそうです。子供など周囲のことを思って行動していたのが、理性が働かなくなり幼児の様な自己主張をし始める。しかし配慮が出来なくなっても、子供の頃に親にしてもらった思い出は変化しません。そして自分に主張がなければ良くも悪くも親と同じ態度を取ります。どうすればいいのか分からないけれど何かしなくてはいけない時、人は何かを模倣するからです。だから虐待も愛情も連鎖するのだと思います。そう考えると、この例の場合は「本質」ではなく「記憶」が適当だったかもしれません。
「誰でも人に認められたいと思う筈」と反論されるかもしれません。確かに否定されるより肯定されたいと思うでしょう。しかし重要度は人によって異なります。私はそういう気持ちが弱く、自分が思った通りに行動してしまいます。「認めてもらうこと」より「知りたい」という気持ちが強いです。それは分からないことに対する恐れや不安の形となって表れます。自分で考えることを覚えるまでは、他人を問い詰める悪い面が目立ちました。質問ではなく答えが分からないと言っていることに気付き、分からないと疑問に感じる自分が考えればいいのだと知りました。
個性によって出来ること・分かることはある程度決まります。個性は力の向きであり、働く場所です。力そのものに意志はありません。使う人間次第で良くも悪くもなります。自分を知って力をコントロール出来るようになれば意識してよい面を出せるようになります。そうなると違う個性の集まりでも似たような結論に落ち着きます。そしてその結論を実行する為に個性によって役割分担が自然と決まります。それが面白い群像劇を書く秘訣のような気がします。私にはまだ無理なんですが。
「固定した思考パターンとして人物を描くのか」「生涯続く強い感情に左右される個性を持った人間として描くのか」は、コラム「おたくの歴史」に出てくる「4.9キャラクターという概念の発明」と関連する話だと思います。
出世欲が強いなど、持っている個性は生涯変わりませんが、経験によって思考パターンは変化していきます。変化の過程を描いた場合、ストーリーと人物を切り離すことは出来ません。何が起ころうといつでもおんなじ反応を返すキャラクターの場合、経験による変化はありません。
「亡き妻」と「美少女アニメのキャラ」に対する気持ちが同じなのは、「誰かを愛し・愛されたい」という欲望が共通しているからだと思います。アニメキャラ同様、死んだ人はもう変化しません。しかし生きている間は変化した筈です。もしそのアニメキャラが文脈から切り離されたキャラクターであるなら、妻が変化した過程そのものを愛するのか、キャラクターが返す特定の思考パターンを愛するのかに違いがあると思います。
娘は褒められることが好きです。だから盛んに人を笑わせようとします。しかしいつも上手くいくとは限りません。私に拒絶されて怒ることもあります。強情なので嫌な理由に納得するまでどんなに嫌がってもやめません。理由を説明するのはめんどくさいけれど、判断できるようになる為には必要な過程なのだと思えるようになりました。子育ての醍醐味はそういった「思考パターンの変化を見れること」かもしれません。出来ないことが出来るようになるとか、分からないことが分るようになるとか、アイドルの追っかけも基本的に同じだと思います。成長していく様子がみたいのだと思います。
「本当の自分」や「ありのままの私」も「特定の思考パターンではなく個性」という意味なのかもしれません。「美しい容姿」や「同じことを面白いと感じる」といった特定の状況を求められ、愛されようとそれを維持するから人間関係が辛いのかもしれません。私自身はありのままにしか振舞えない性格なので想像です。何を求められているのか分からず困ることはあっても、期待に答え続けるのが辛いという経験はありません。
長くなってしまいました。多様性がもたらす豊かな世界を書く為に「自己実現」や「個性」について調べているところなので、私にとっては興味深い話題です。iwatamさんがよければもう少し会話を続けたいのですが、いかがでしょうか?
賛同いただけるなら、キャラクターと個性の関係について意見を聞かせていただけませんか?
※「業」ではなく「煩悩」の方が近いかもしれません。
No.520) 少し遅れましたが返答 iwatam(Wed Dec 15 16:22:49 2004) |
あなたのいう「個性」が生涯変わらないか、というところも私は疑問に思っています。おそらく変わるのではないかと。
「人に認められたい」という気持ちが、「人に認めてもらわなくても問題ない」に変わってもおかしくないと思うのです。
とすると、生涯変わらないものは何か。私は「ない」と結論づけます。
しかし、「変わらないもの」はないと結論づけますが、「ほとんど変わらないもの」はあると思います。「変わる」と「変わらない」に二分するのではなく、「やや変わる」「なかなか変わらない」という程度問題だということです。
だから、個性と思考パターンは完全に分離できるものではなく、すべては個性と思考パターンの中間にあるものと思われます。
と言っておいて何ですが、もしかしたら個性とは「思考パターンの変化のパターン」なのかもしれません。そうすると「思考パターンの変化のパターンの変化のパターン」ももしかしたらあるのかもしれません。
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という話をした後で突然小説の話ですが、私がなんだかなぁと思う小説には、この、変わるものと変わらないものの絶妙なバランスが足りないことが多いです。
たいていは「変わらない」ことが多いですが、ある出来事を境にがらりと別の個性に「変わって」しまったりします。これが唐突で違和感を感じてしまいます。
なるほど、今のキャラクター重視の小説が肌に合わないのはこういうわけだったんですね。私は人の「変化」を見たいのであって、人の思考パターンを見たいのではない、と。そのためには話が時間的に連続していなくてはならず、ストーリーが欠かせないというわけです。
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ただ、「思考パターンは変わるものだ」としてしまうと、そこに正当性がなくなってしまいます。
例えばキャラクター小説では、下手に書くと「こいつの性格ではこんなことはしないだろ」と言われます。しかし本物の小説では、性格は変わるものなのでそれもアリになってしまうわけです。しかし、下手に書くと読者に違和感を感じさせます。
キャラクター小説の場合、「性格は変わらない」という一つのルールであって、その通りに書けばOKなわけです。しかし、本物の小説では、ルールはないはずなのに下手に書くと違和感が生じます。そこが難しいのだと思います。
理由もないのになぜ違和感を感じるのか、そこは非常に難しいところです。
No.521) 誤解を恐れず想像するなら エリー(Thu Dec 16 10:47:44 2004) |
No.524) まだ少し考えがまとまっていないところはあるのですが・・ iwatam(Fri Dec 17 02:38:51 2004) |
No.525) 補足です エリー(Fri Dec 17 05:50:56 2004) |
ホームページ「YUCKY's STUDIO」
http://www.yuki-enterprise.com/
blogサイト「YUCKY's STUDIO Blog」(開設したばかりです)
http://yuckys.exblog.jp
No.512) はじめまして iwatam(Fri Dec 10 22:47:01 2004) |
私は敬語や言葉遣いは苦手なほうなので、いろいろお叱りを受けなければならないような気がします。ホームページも拝見しました。いろいろ勉強になりました。
No.496) コラム:日本人の宗教嫌い ほげげん(Fri Dec 3 18:08:27 2004) |
コラムでは
「絶対を信じていなければ仏教徒」
のような表現をしていますが、疑問を感じています。
仏教徒とは
仏教を学び、その教えを念頭において思想や行動する人
ではないのかと思います。
(つまり学んだだけでは仏教徒ではない)
私は「絶対を信じていない」ですが、その思想は日常生活で得られたあらゆる情報から導きだしたものであり、仏教の事はまったく頭にありませんでした。
宗教を批判する気は無いですが、やはり信者になりたいとは思いません。
No.497) 信仰とは iwatam(Fri Dec 3 23:53:13 2004) |
No.498) Re信仰 ほげげん(Mon Dec 6 11:54:13 2004) |
私が「絶対を信じない」ようになったのは
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
、、他にもあるような気がしますが、大きい所ではこんな所です。
こういったものの背景に仏教はないと思います。
また、この考えは誰から教えられたり聞いたりして学んだ覚えがありません。
あと仏教にも仏陀や釈迦や仏、無の境地など否定する部分や理解できない部分もたくさんあります。
仏教の考え方に賛成(前述するとおり反対部分もあるが)できる所もありますが、
それで「あなたは仏教徒です」というほうが、おかしく思えます。
人によって「信者」「信仰」って言葉の意味は結構違う物ですね。
辞書によっても内容が違ってたりするみたいです。
なので、人によって「信者」「信仰」に対する考え方は違っても良く、
誰かが決めなくてもいいのではないのでしょうか?
No.499) お返事は気の向いたときにどうぞ iwatam(Wed Dec 8 00:14:42 2004) |
仏教徒というのは、「仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」ではありません。この定義だと、修行中のお坊さんは仏教徒ではないことになってしまいます。理解できないから仏教徒ではないというのはおかしいのです。
それに、仏教という教えは全体で一つのまとまった考え方です。すべてが論理的につながっていますから、ある部分だけを否定してある部分を肯定することはできません。もしある部分だけがおかしいと思うなら、それは方便ととらえるべきです。
結局、仏教徒とは何かというと、仏教の教え(=「絶対は存在しない」という考え方)には深い真実があるのではないかと思う人のことです。
私が奇妙に感じたことを例え話で語ることをお許しください。人が音楽にのって踊っているのを見て、「それはダンスというもので、あなたのような人はダンサーと呼ばれます」と言ったのに対して、「私はダンスなど習ったこともないし、ダンサーでもない」と言われたようなものです。
「信仰という言葉の意味は人それぞれ」はその通りではあるんですが、それを言ってしまうと対話が成り立たなくなってしまいます。私はこういう意味で信仰という言葉を使いますと説明しました。あなたがどういう意味でこの言葉を使っているのかはわかりませんが、私の意見を誤解したままでいてほしくはないと思っています。
No.500) 返答ありがとうございます。 ほげげん(Wed Dec 8 11:42:37 2004) |
繰り返し書きますが「絶対を信じない」を誰かから教えられたり聞いたりして学んだ覚えがないというのは本当です。
前述したように
・TVのニュースで戦火に泣く人を見る
・現実の厳しさに直面した
・世の中理不尽な事ばかりと思う
が大きなところで、これに仏教と何の関わりがあるのでしょうか?
誤解されているようですが
「仏教徒というのは仏教を完全に理解してそれを全面的に肯定する人」
とは思ってないですよ。
私が言いたいのは仏教に局所的にしか賛成できておらず、しかもその賛成する動機(発端)のほとんどに仏教が見当たらない。それで仏教徒はおかしいと思うということです。
「仏教の教え」=「絶対は存在しない」
という解釈が私の疑問の核心ですね。
「仏教の教え」の中に「絶対は存在しない」が
あるわけでイコールではないですよね?
また「絶対は存在しない」という考えは仏教を通さずに学べますよね?
「信仰という言葉の意味は人それぞれ」っていうのは失言でしたね。ごめんなさい。
No.501) 失礼を承知で iwatam(Wed Dec 8 15:50:42 2004) |
専門用語で言えば、仏教の三大原理は諸行無常(=絶対は存在しない)、諸法無我(=だから絶対不変の自我も存在しない)、涅槃寂静(=だから、過去や未来をあれこれと思いわずらっても無駄だ)の3つです。諸行無常が最初にあり、後の2つは「だから」でつながっています。だから、諸行無常こそが仏教の根本理念であり、あとの2つはそこから論理展開によって導き出されたものです。
つまり、「仏教の教え」=「絶対は存在しない」です。
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「仏教を通して学ぶ」というのは変な言い方です。仏教は何かを学ぶ方法ではなく、対象である「何か」だからです。
だから、「仏教を学ぶ」という言い方でないとおかしいのです。「お経を通して仏教を学ぶ」とか「お寺を通して仏教を学ぶ」のように。
もちろん、仏教を学ぶには、仏門に入る必要も坊さんの法話を聞く必要もお経を読む必要もありません。「何も通さず仏教を学ぶ」もあり得ます。ただ、これは仏教を学ぶ近道ではありませんが。
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失礼を承知でお聞きします。あなたは、仏教とは何だと考えていらっしゃるのでしょう?
No.502) ほげげん(Wed Dec 8 15:17:03 2004) |
No.503) ほげげん(Wed Dec 8 15:28:25 2004) |
No.504) 繰り返しになりますが iwatam(Wed Dec 8 16:08:22 2004) |
「仏教=絶対は存在しないという考え方」なので、「絶対は存在しないという考え方は仏教を通さずに学べる」というのは「仏教は仏教を通さずに学べる」といっているのと同じことです。これは変です。
「仏教を通して学ぶ」といった場合、何を学ぶのですか?
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その通り、外国で生まれ育ってきて、本当に日本的なものの考え方に接する機会がなくても、「絶対は信じない」ならば、あなたは仏教徒です。
私が疑問を投げかけたのは、あなたが「他の影響を受けていない」と言っていたことに対してであって、受けていようがいまいがそれが仏教であることとは実際は関係がありません。
もし本当に独自に釈迦の境地にまで至ったのであれば、それは非常にすばらしいことです。
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仏教は「仏陀の説いた教え」であるというのは、間違ってはいませんが定義が変です。これだと、仏陀が説いたことはすべて仏教になってしまいます。仏陀は仏教も仏教以外のこともいろいろ説いたでしょう。その中で、「絶対は存在しない」に連なる一連の教えを仏教と呼んでいるのです。
万有引力の法則を「ニュートンが発見した法則」と定義するのが変であるように、仏教を「仏陀の説いた教え」と定義するのは変なのです。
No.505) ほげげん(Wed Dec 8 16:38:46 2004) |
No.508) こちらから質問です ほげげん(Thu Dec 9 17:41:56 2004) |
No.509) すみません iwatam(Thu Dec 9 22:27:15 2004) |
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仏教の3大理念を書きましたが、これは3つが別々にあるのではなく、すべては一つのことなのです。一つのことを3つの違う言い方で言い表しただけなのです。
だから、これらを一つだけ抜き出して話をすることはできません。
「諸行無常」は「仏教」の説明文ですから、当然のことながら別のものではなくて同じものです。
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あなたは「仏教とは何か」という問いに対して、中身に一切触れないで答えをしています。そんな答えには意味はありません。
仏教とは、紀元前5世紀頃、インドで「仏陀」を開祖として旗揚げした宗教であり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の3大原理からなるものであり、その中でも根本になるのが諸行無常、つまり「絶対は存在しない」という教えなのです。
あなたがそういう形で仏教をどう定義しようと、それは今回の話とは何の関係もありません。
No.510) ほげげん(Fri Dec 10 13:01:43 2004) |
No.515) 「原理」という文の意味 iwatam(Sun Dec 12 13:40:19 2004) |
yはものの名前ではなく、文章であることに気をつけてください。
No.517) なるほど ほげげん(Mon Dec 13 13:56:56 2004) |
例え話になり申し訳ないのですが、、
「仏教は絶対を信じない思想」を「電球は電気を使った明かり」とします。
iwatamさんの見解では
「電球」は電気を使い照るから「電球」=「電気を使った明かり」である。
となり、私の見解では
「電気を使った明かり」は「電球」だけに限らない。
となり、ここで大きな食い違いがあるみたいですね。
「電気を使った明かり」は私にとっては、カテゴリととらえています。
iwatamさんにとっては、その物の説明ととらえているのでしょうか?
(勝手に憶測した事、ご容赦ください。違うようでしたら気軽に
ご指摘頂けたらと思います。)
No.519) 例え話へのつっこみで申し訳ありませんが iwatam(Tue Dec 14 03:17:28 2004) |
上の例で言えば、「電球」と言うより「電灯」と言った方がより私の言いたいことに近いです。
「電灯は電気を使った明かり」です。「電気を使った明かりは電灯だけではない」というのはなんか変で、蛍光灯だろうがLEDだろうがそれは電灯だろ、と言いたくなるわけです。
「電気を使った明かり」はカテゴリ(=概念)であり、「電灯」というのはそのカテゴリを一言で表すための名前です。
同様に、「仏教」というのもカテゴリをあらわす名前です。
No.527) やっぱりちがうような・・・ ほげげん(Fri Dec 17 13:18:23 2004) |
やっぱりiwatamさんの言いたいことを理解できてないようです。
「絶対はない思想」の名前は「仏教」なのですか・・・質問しようかと思ったのですが、どうやら始めの質問に戻ってしまいます。
なんか他の方からも似たような質問がゲストブックに出されているようですね?
私とiwatamさんの議論はややつまり気味かな?と思いますので、私はとりあえずそちらの議論を観たいと思います。(不躾ながらそちらにコメントを出すかもしれません。)
ご親切にご返答・ご質問いただけたこと、とても感謝しています。