iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

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No.371) 「神道における神」について きはら(Sun Feb 22 22:16:49 2004)
iwatam さんは、おそらく、話の筋を明確にしたいためにわざと省略なさったのだと思いますが、日本人にとっての「神」を論ずるのであれば、やはり、日本人にとっての「仏」についても言及すべきであろうと思います。
別のコラムにする方が良いかもしれません。
いづれにせよ、iwatam さんに、「日本の仏教(?)における仏」という題で論じてほしいと思いました。
No.372) ご意見ありがとうございます iwatam(Mon Feb 23 15:55:07 2004)
今回のコラムでは前半と後半で「神道」という言葉の意味合いが違ってしまっています。前半は他の思想の影響を取り除いた純粋な意味での神道です。そして、後半(政教分離の話以降)は神も仏もごっちゃになった、昔の日本人が信じていた信仰という意味で使っています。途中で意味が変わっているのには自分でも気づいていませんでした。ご指摘ありがとうございます。
本コラムの主題は日本人の思想ではなく神道についてなので、上記の点を踏まえて書き直し、仏教についてはまた別に論じたいと思います。とはいっても力不足の感はありますが・・・・
仏教については折を見ていつものように批判覚悟で生半可な知識を書き散らすことにします。
No.253) 「科学万能主義」について miy(Sat Jan 24 18:30:40 2004)
はじめまして。こちらのサイトの文書は、たびたび拝見させていただいています。

「何でもコラム」の「科学万能主義」について、途中から「科学」という言葉の使い方が混乱してきているように思われましたので、質問と意見を書き込みます。

第一段・第二段の「科学万能主義」における部分では、
「これらが科学万能主義の発想である。現在の状態を適切に観測し、それに科学法則を適用すればすべての結果が導き出せるというものだ。」
という文から、「万能」なのは「科学的手法によって得られた法則」であって、「科学万能主義」の「科学」は、上のような「法則」を指している語のはずです。

ところが、第三段の
「別の意味の科学万能主義があるからだ。「科学以外の方法で解明できるものは何もない」という主義である。」

という文では、明らかに「科学」という語は「科学的手法」という、方法を指し示す語として使われています。

以降の文での「科学」という語は全体的に意味がはっきりととれず、
「これは「科学」の力の問題ではなく、「解明」という言葉の定義の問題である。」
という文も、よく理解できません。
『理解できないものを理解できるようにすることは、「科学的手法」に基づいたものでなければならない』という主張は、「科学的手法万能主義」を受け入れた場合にのみ成り立つはずです。
「「科学的手法万能主義」は妥当な主義である。」としても、「科学的手法万能主義」を立場として受け入れる必然性があるということにはなりません。

第四段の、真偽不明の文の価値に関する文章は、全て「科学的手法万能主義」を受け入れた場合のみ成り立つ文ですが、すでにこれを受け入れていることが前提であるかのように書かれています。
このときの「真偽不明の文の価値はゼロだ。」という価値判断を行う主体は、科学者でしょうか、それとも人間の全てでしょうか。

第五段では、
「科学というのは「きちんと筋道を立てて説明 する」ということである。」
と定義されますが、ここではすでに第一段・第二段での「科学」の定義は、失われてしまっているようです。

「科学によって明らかにすることを解明というのだから、」
という文も、「これは「科学」の力の問題ではなく、「解明」という言葉の定義の問題である。」が理解できていないために、やはり理解できません。

途中から論理が言葉の定義とともにねじ曲がってしまっており、第三段以降の意味が良く分からなくなっているように思います。

No.257) 「科学」とは「科学的手法」の意味です iwatam(Thu Jan 22 23:09:52 2004)
「科学万能主義」のコラムでは、はじめから最後まで「科学」という言葉を「科学的手法」という言葉と同義で使っています。
第一段、第二段については「科学的手法によって万能な法則が得られるのだから科学的手法は万能である」という意味です。しかしそれは否定されました。そこで第三段以降はストレートに「科学的手法」という言葉を使っています。

おっしゃるように、第三段以降はすべて「科学的手法万能主義を受け入れられるなら」という話です。なぜ科学的手法万能主義を受け入れなくてはならないかというと、「解明」というのが科学的手法万能主義の言葉だからです。「解明」という言葉を使った時点で科学的手法万能主義の立場でものを考えるということです。
逆に言った方がわかりやすいでしょうか。「解明をどうやってすればいいか」という問題に答えるものが「科学的手法」です。これは言葉の定義です。「解明する方法」=「科学的手法」という定義なので、科学的手法ではない「解明する方法」は定義上存在しません。

もし最初の言葉が「この世には科学では悟れないことがある」とか「この世には科学ではわからないことがある」いう言葉でしたらまったく異論はありません。

No.263) 科学的手法万能主義と解明とが必然的に結び付くことについて miy(Sat Jan 24 18:25:37 2004)
お返事ありがとうございました。「科学万能主義」のコラムでは、「科学」という語が「科学的手法」の意味で使われていることと、それによって第一段・第二段の文章と第三段以降の文章が食い違うことはないということは、理解できたように思います。

しかし、「この世には科学では解明できないことがある」という文に検討を加える際に、「科学」なる言葉を「科学的手法」と、なぜ説明なしに置き換えが可能であったのかということには疑問が残ります。

私は、この一連の投稿に論理的な誤や曖昧さを指摘しようとする意図をもたせていますが、同時に閲覧者の一人として、サイトの文書がより分かりやすいものとされることを希望しています。

本題に入ります。

まず、「科学的手法万能主義」を受け入れる必然性がある理由として、iwatamさんは「解明」という言葉がそもそも「科学的手法万能主義」の言葉である、「解明」という語がそのような定義である、という事実を挙げていらっしゃいますが、しかし、その事実を私は認識していません。

自然言語には、定義というものは原理的に存在しません。逆に自然言語が指し示す意味の範囲が時に曖昧すぎるために、話者が話題に即して意味を限定する、即ち定義する、必要があるのです。

ここで私は、「解明」なる語が自然言語ではなく、限定的な出自をもつ語であるという事実を示される必要があります。

私がいくつかの辞典にあたってみた限りでは、そのような出自については確認できませんでした。
したがって、ここで、「この世には科学では解明できないことがある」というメッセージの発信者が、仮に私が行き当たった辞典と同じように「解明」という語を解釈し、使用していたとしても、私にとって不思議はありません。そしてこの場合には、「解明」という語が「科学的手法万能主義」に基づく言葉であるとして使う必要はありません。

私は、ここで「解明」の意味を、とりあえずは広辞苑の
「不明な点をはっきりさせること」を拠り所として捉えます。「はっきり」および、「はっきり」の説明に使われる「明らか」について同辞典によって展開すれば、
「不明な点を、明白で疑いをはさむ余地がないような状態にすること」
となります。
少なくとも、「科学」なる語と、論証なしに直接結び付く言葉ではありません。

解明とは科学的手法の言葉であるという文の逆としてiwatamさんが挙げられた、科学的手法は解明をどうやってするかという問題に答えるものである、ということには、反論はありません。
しかし、逆が成り立つ場合のすべてが、同値であると証明されるわけではありません。

この場合には、「解明をどうやってするかという問題に答えるもの」が「科学的手法」を包含している可能性があり、その可能性を消し、同値であることを示すためには、「解明をどうやってするかという問題に答えるもの」の全ては「科学的手法」である、という文が真であることを示す必要があります。

「科学万能主義」のコラム中では、「科学的手法万能主義」自体が「解明を、科学的手法によってのみなされると定める」主義であると述べられています。つまり「科学的手法万能主義」を受け入れることは、上の文を論証無く真とみなすことと同じです。

しかし、「解明」という語を使うことが「科学的手法万能主義」を受け入れることに等しいとしたら、上の「解明を〜と定める」意味はありません。
この辺りの論理は異常であると私は考えます。

そして、「解明」という語を使うことが「科学的手法万能主義」を受け入れることに等しいと いう文に関しても、私はその事実を認識していないということは、先に述べた通りです。

No.264) コラム全体を見て miy(Sat Jan 24 18:26:41 2004)
以降、主にコラム全体の内容に対して意見を述べようと思います。
揚げ足とりのようになっている部分もあるかと思いますが、一つ一つの文の意味がきちんと通っていることは、考えをまとめるという、コラム作成に掲げられている目的に対しても有効であると考えます。

以下では、科学という語に対して「体系的であり、経験的に実証可能な知識」、科学的という語に対して「物事を実証的・論理的・体系的に考えるさま」
という意味に大まかに従い、なるべく「科学」「科学的」という語を使わないようにします。これらの語は、意味が曖昧なわりに強いイメージを持たせるために、ここでは障害にしかならないと判断するからです。

「解明」についても、仮に「不明な点を、明白で疑いをはさむ余地がないような状態にすること」を用います。

コラムの論理の流れとして、私は以下のように解釈しました。

-------
「この世には科学では解明できないこともある」を論じるために、対立する文である「この世の全てのことは科学で解明できる」を検討することにした。上が否定されれば、最初の文は真となり、上が肯定されれば偽となるはずである。

「この世の全てのことは科学で解明できる」という考えは、ラプラスらの発想と一致する。即ち、この世のことは全て、経験的に実証可能な範囲で得られる法則によって全て疑いの余地なく明白にでき、経験的に実証不可能な要因は完全に存在しないとする発想である。
このことは、実証的に考える方法によって全てのことを疑いの余地無くはっきりとさせうるという主張でもある。
しかし、これは否定された。そもそも、証明不可能な文である。
これが否定されるならば、最初の文は真であるということになる。

しかし、はっきりしないものごとを明白で疑いのない状態にするには実証的な方法に依るしかない、即ち、経験的に実証可能な知識のみが明白で疑いようのない状態であると呼べる、という主義が存在する。

これは真である。

ならば、最初の文は同義反復となり、意味がないことになる。
-------

仮に、この流れが正しいとしたとき、
私が理解できないのは、最後から二つ目の「これは真である」の部分です。この部分に関する論証がないままに最後の結論が導かれているために、私は最後の結論に賛成できません。

それに、最初の文に意味がないとすれば、その逆の文であるラプラスらの発想についての考察にも意味がないことになります。コラム前半部自体の存在意義を完全に否定しているのだから、少なくとも、なぜここで考察が終わるのかは釈然としません。

また、解釈すべき文に含まれる語に対し、文章の最後に定義を与えているところも、不可解です。文を読み取る際に、最初に考えるべき事柄だからです。

最初の文に対する私の解釈は、そのまま
「この世には、経験的に実証可能な知識からでは疑いの余地の無い状態にできないという、不明なことも存在する」
というものです。

はっきりしているか、明瞭か、疑いの余地がないか、ということは、認識の問題です。デカルトの仕事にまで踏み込むなら、考える自分以外はすべて疑えることになります。

経験的に実証可能な知識にも、それが成り立つには前提が存在しています。最初の文は、その前提を受け入れる限り決して理解し得ないものごとが存在していると主張する、つまるところ「科学の前提も疑われるべきものである」と主張する文であると、私は解釈します。曖昧な文ですが、特に問題があるようには思われません。

以下は、細かいところなのですが、
第三段の「超能力や霊といった超常現象が非科学的なのではない。それが目撃談や手品まがいの実演といった非科学的な方法でしか見られないから非科学的なのだ」
という文のつながり方は、論理的に異常です(先の文で否定したものを、そのまま後の文で肯定しているからです。)。最初の文が否定するものは、理由であるべきだと考えます。

また、第四段の「きちんと筋道を立てて説明したものだけに価値があり、そうでないものはすべてゴミだ」ですが、
実証主義全体としては、実証的方法で導かれないものに対して、考えに取り入れるべきであるという価値を与えませんが、反価値も与えません。「ゴミ」という比喩は、「ないほうが良いもの」という反価値としての意味を与えるために、適切ではないように思います。

「空気のようなものだ」あたりであれば、適切な比喩であると思います。

「この世には科学では解明できないこともある」という、件の文は、実証主義自体は否定しませんが、実証的方法で導かれない方法は全て廃棄する方が望ましいという、実証主義の一極支配主義とは反目します。
しかし、「廃棄する方が望ましい」「望ましくない」というのは、個人の価値判断の領域です。論理的に実証主義から導かれるものではありません。

実証主義のもとで研究を行ったニュートンなどの科学者が、往々にして同時に神を奉ずる宗教者であったということを、私はその根拠として挙げます。

No.273) 一つ気になったこと iwatam(Sun Jan 25 03:11:21 2004)
本題とは関係ありませんが、タイトルで一つ気になったことがあります。
「コラム全体」というのは、「科学万能主義」というコラム全体を指すのでしょうか、それとも他のコラムも含めた「何でもコラム全体」を指すのでしょうか?
私は前者だと受け取りましたが、勘違いしているといけないのでおたずねした次第であります。(私の認識が合っているのでしたらご返答の必要はありません)
No.274) 細かい話ですが「ゴミ」について iwatam(Sun Jan 25 03:35:25 2004)
私は「ゴミ」という言葉を単に「価値のないもの」という意味で使いました。「あってはいけないもの」という意味では使っていません。
(これは部屋にゴミが散らかっていても平気な人にしか通用しない定義かもしれませんが・・)
なお、「空気のようなもの」という言葉には「普段は気づかないが価値のあるもの」という意味が(普通は)あるので、ここで私が言いたい言葉としては適切でないでしょう。
No.270) 言葉の定義について iwatam(Sun Jan 25 12:26:44 2004)
私が本コラムで使用した言葉の定義を書きます。
「解明」=「だれもが正しいと認めることができる状態(だれにも疑いをはさむことができない状態)」
「科学」=「正しい道筋でものを考えること」
「科学的手法」=「ものを考える時の正しいと認められた道筋」

上記のように定義するといささか同語反復的になります。

「経験的に実証可能な範囲で得られる法則による」というのは、科学の一種ではありますが科学のすべてではありません。我々が今までそれ以外に方法を知らないからこれが科学だと呼ばれてしまうこともありますが。
なお、「理解」と「解明」は違うものであるということも付け加えておきます。「理解」は個人的なものですが、「解明」という言葉の定義には「だれもが」という言葉がついております。
少なくとも用語の用法にお互いのずれがあるようなのでここで明確にしておきたいと思います。
いろいろとご意見ありがとうございます。

No.297) 語の意味を解釈する際の規範について miy(Wed Jan 28 21:36:26 2004)
「ゴミ」については、私個人のイメージもありますが、直接の典拠としては広辞苑の「物の役に立たず、ない方が良いもの」という記述に拠っています。
科学という語について「体系的であり、経験的に実証可能な知識」、科学的という語について「物事を実証的・論理的・体系的に考えるさま」という意味を当てているのも、広辞苑の記述にそのまま従ったものです。

個々の人間が言葉に対するイメージ・知識を得るに至る環境は、その言葉の属する言語が使われる環境全体に比べて、非常に狭いものです。
従って私は、他人にも参照可能であり、それなりに広範囲にわたる言語研究の結果であると考えられる規範として、仮にこの辞典を使うことにしました。

言葉は話し手と受け手の間で通じなければなりません。その際に互いが言葉に対してもつイメージを統一するためには、何か共通の規範が必要です。その規範として辞典を選ぶのは、とりあえず穏当な方法ではあるでしょう。

「科学万能主義」のコラムでは、話はまず「この世には科学では解明できない事もある」という、他人が発したメッセージの解釈から始まります。この文に含まれる言葉を定義できるのは、この文の作成者だけであるはずです。

この時、解釈する側は解釈する際にいくつかの前提を置くことが可能です。例えば「この語は○○に従えばこのような意味になる」というような前提です。

元の文に対しある前提を立てて考察を進めた結果、結論がおかしな事になった場合、可能性としては「元の文がおかしい」か、あるいは「前提がおかしい」か、という二つがあり得ます。
この時、この前提の由来を記しておけば、読み手は前提に対しても検討を加えることが可能です。

iwatamさんがコラム中の言葉に対して当てた定義の由来を私は知りませんが、他人の発した文に対しても前提として自身の定義を当て、結果として結論に同語反復が含まれたからといっても、そのまますぐに「この文は文として正しくない」と断ずることはできないと考えます。

もしもコラムの始まりが「超常現象を扱ったTV番組では、あるメッセージがよく流される。このメッセージとは大体〜〜という意味であるようだ。」というものであったならば、ここでの「〜〜」はiwatamさんの文です。宣言した上であれば自己流で定義した言葉を使うことも自由でしょうし、また、この文が同語反復をおかした場合の責もiwatamさんに還るものになります。

No.298) 個々の語について miy(Wed Jan 28 21:37:39 2004)
価値がないということの比喩に「空気のようなもの」を当てるのは、おっしゃるとおりあまり適切ではないかもしれません。

「科学」と「解明」の意味についてですが、iwatamさんの定義に従う限りでは、特に申し上げることはありません。

一般の話であれば、私は事実として「科学とはscienceの訳語として作られた語であり、scienceの元になった言葉はもともと『知』というものを指す言葉であり、しかしscienceは次第に限定的な『知』についての意味を指すようになっていったらしい」ということを認識しています。
その「限定的な『知』」について、辞典の編纂者は「体系的・実証的」といった意味合いを含む知識である、と解釈しているのでしょう。
その理由については、私はよく知りません。

「解明」ですが、もともと「だれもが」といった意味合いはなかったのだろうと思っています。「だれもが」という意味の意識が日本語の使用者の間で強くなれば、辞典の記述も変わるのかも知れません。

No.301) 語義について iwatam(Thu Jan 29 03:50:11 2004)
私は大辞林(三省堂)の定義に従いました。
「解明」が「だれもが」という意味を含むというのは、上であなたも述べられていました「疑問の余地がない」というところに入っております。「だれかが疑問に思う」=「疑問の余地がある」ということではないでしょうか。
ちなみに大辞林には
「解明」=「わからない事柄をあきらかにすること」
「あきらか」=「事柄が、だれにもわかるようにはっきりしているさま。疑いをはさむ余地のないさま。明白なさま」
とあります。
そして、「科学」=「自然や社会など世界の特定領域に関する法則的認識を目指す合理的知識の体系または探究の営み。実験や観察に基づく経験的実証性と論理的推論に基づく体系的整合性をその特徴とする。研究の対象と方法の違いに応じて自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。狭義には自然科学を指す。」とあります。
ここでは、実証性や体系性については定義ではなく特徴であると述べられています。
そして「合理的」=「論理にかなっているさま」と書かれていて、
「論理」=「思考の形式・法則。議論や思考を進める道筋・論法。」と書かれています。
つまり、科学とは思考を進める道筋を体系的に集める、もしくは探求するものだと書かれています。
もちろん、上の記述はご参考までにということで、広辞苑の記述が間違っていると言うつもりもありませんし、自分の語義の方が正しいと主張するつもりもありません。
問題は語義についての説明がなかったことであるとはっきりしましたので、その点をコラムに追加させていただきたいと思います。
ご意見ありがとうございました。
No.251) はるゆき(Wed Jan 21 15:33:42 2004)
はじめまして。大変興味深く拝見させていただきました。私も漠然と同じようなことを考えていたことが多かったのですが、それがまとまった形できちんと明文化しているのを読むのは気持ちのいいものです。

ただ、一点だけ納得のいかない部分がありました。「確信犯」についてです。これは文化庁の調査の内容で特に問題ないのではないでしょうか。
例えば、ある宗教の信者が人を殺したとします。「殺人は罪だ」と言った場合「「経典では許されている。法律のほうが間違っているのだ」などと考えるのが確信犯です。自分の正当性を文字通り「確信」しているのです。
だとすれば、確信犯を「分かっていながら悪いことをする」という意味で用いるのはやはり誤用だと思いますが、どうでしょうか。

No.252) それはつまり信念とは何かという話です iwatam(Wed Jan 21 20:32:29 2004)
例えば多くの人が自動車でスピード違反をします。これは「スピード違反は悪いことじゃない。制限速度がこんなに低いのが悪い」と思っているからであり、これは確信犯です。
では万引きはどうでしょうか。普通の人はやりません。しかし万引きをする人は「万引きくらい見つからなければどうってことはない」、言い換えれば「万引きは捕まらなければやるのも許されている」と思っています。だからこれも確信犯です。
つまり、「わかっていながら悪いことをする」という時点で、その人は「このくらいは許されている」と考えていると言うことです。自分教の教典で許しているからこそするのです。
というふうに考えると、自分でも許されないと思っている行為をすることはありえません。なぜならそれをするということはそれが(何らかの意味で)許されていると思うことだからです。こういう意味で、「わかっていながら悪いことをするならばそれは確信犯以外にはあり得ない」と結論づけます。

なお、私の結論はどっちが正当でどっちが誤用だと言うわけではありません。文化庁の調査で出ている項目は2つとも間違いであるというのが結論です。本当の答えはその2つを合わせたものなのですから、片方が「省略が入っているから」という理由で間違いとされるのなら、もう一方も省略が入っているので間違いです。

No.254) 祈月(Thu Jan 22 20:59:51 2004)
 初めまして、コラムを拝見させて頂きました。
 「確信犯」ですが、「世間を騒がせ、その反響を楽しむことを目的とする犯罪。また、その犯人」と言う「愉快犯」の意味で捉えている人が多く、そういう意味で誤用されているのが本来の問題かと。
 また「確信犯」の「判っていながら悪い事を」と言う部分に関しても、「「判っていながら行う悪い事」を「悪い」と定義するのは誰か?」で、ニュアンスがずいぶん変わります。「自身がそれを悪いと捉える」「自身がそれを悪いと捉えない」本来の語意としての確信犯は後者ではないでしょうか?
 まぁ、言葉というものが時代や思想を反映して変化していくのは致し方ない事ですが、だからといって必要以上に言葉を広義に解釈して、微妙な違いによる表現の変化が減っていくのは、今ひとつ面白味に欠けると思うのですがね。
 ところで、例にある「…見つからなければどうってことはない」を本当に信念である言ってしまうのは、ちょっと乱暴すぎる様な気がします。
 
No.255) まず論点をはっきりと iwatam(Thu Jan 22 22:25:34 2004)
まず、ここで何を論じるかということとは別に、元コラムの論点をはっきりさせておきます。

元コラムの主張は、「確信犯の意味は変わった」という主張ではありません。「文化庁が挙げた二つの文について一方的に正しいとか間違いという評価を下すのはよくない」という主張です。それはなぜかというとどちらもある意味間違っていて、ある意味正しいからです。

元コラムで問題としているのはあくまで文化庁であって、世間一般でどう誤用されているかというのは考慮の対象外であることをまずご承知いただきたいと思います。

No.256) 悪いととらえるのは誰か iwatam(Thu Jan 22 22:41:10 2004)
「確信犯」で「わかっていながら悪いこと」を「悪い」と定義するのは、法律であり社会であり世間です。自分ではありません。
だからあなたの言うとおり「確信犯」には「自身がそれを悪いとは捉えない」という意味があります。
つまり、「悪い」という言葉には「社会が悪いと思っている」と「自分が悪いと思っている」の二つがありますが、自分で悪いと思っていることをやることは不可能なので、「悪いとわかっていて」という言葉の「悪い」は前者である、ということです。

なお、「確信犯」と「愉快犯」とが混同されているという話は初めて聞きました。なるほど、そういう話なのでしたら「おかしい!」と声を挙げるでしょう。
なお、愉快犯は確信犯そのものではないが確信犯の一部である、という見方はよろしいでしょうか?「世間を騒がすことが天国への道である」と説く騒乱救世教の信者であるということで。

No.258) なるほど 祈月(Fri Jan 23 01:15:44 2004)
 スタンスの件は了解しました。まぁ、でも、たとえ一方的であれ、一つの指標を示すの良いのではないか、と私は思っていますが。
 なお、私が示した愉快犯と確信犯の混同は、「そういう使い方をしている方をよく見かける」と言う意味でして、文化庁の言う誤用がこれに当たるかどうかは判りません。誤解を招く書き方をして申し訳ありません。

>なお、愉快犯は確信犯そのものではないが確信犯の一部である、という見方はよろしいでしょうか?「世間を騒がすことが天国への道である」と説く騒乱救世教の信者であるということで。
 さて、どうでしょう。この場合「騒乱救世教の信者」がその行動の意図を正しいと思っているので有れば、それは「一見愉快犯に見えるが実は確信犯」、と捉えるのが正しいのではないかと。良い悪いは確かに社会的な定義や道義的な定義などいろいろ有りますが、この確信犯、愉快犯のカテゴリーに限っては「確信犯=自身の行動が悪くないと思っている」「愉快犯=自身の行動が悪いと思っている」と考えるのが妥当では無いかと思います。別に宗教的、政治的、道義的行動を神聖視するつもりはありませんが、明らかに快楽目的のそれとはそもそもの動機が違うでしょうし、同一視するのもどうかと思います。

>自分で悪いと思っていることをやることは不可能なので…
 ここで言う「悪い事」が根元的な人の禁則原理であると定義するならば確かにその通りでしょう。
 が、少なくとも私は「自分が悪いと思っている」事は「社会的に悪い事とされている」からと言う場合が多く、また、そうであっても、それをしてしまう事があったりします(苦笑)。歩行時の信号無視だったり、スピード違反だったり。この時の私の心情は「悪いと思っているし、人から注意を受けたら反省するが、その方が楽だから思わず遣ってしまった」な訳です。これはiwatamさんの定義で言えば「自分では悪い事と思っていない事」に成ってしまう気がするのですが、ではこの私の心情はどう形容するべきでしょうか? 私なら普通に「自分が悪いと思って居るがやってしまった」と思いますが。

No.259) まずは問題の整理から iwatam(Fri Jan 23 13:58:02 2004)
愉快犯と確信犯の混同については、もし私の認識が根本からずれていて、実はここで言うような話ではなかったという事を危惧してのことです。ここでの議論が的はずれでなければよいのですが。

で、ここで少し疑問に思ったのが、「確信犯」がどのように誤用されているかという問題です。つまり、「確信犯」と誤用されているけれど本当の意味では確信犯ではないのはどれかという問題です。

上に出された例のうち、「その方が楽だから思わすやってしまった」というのは誤用の意味でも確信犯には入らないと思うのですが、どうでしょうか?「思わず」とか「うっかり」はだれも確信犯とは呼ばないと思うのです。同様に、何も考えずに快楽にまかせて衝動的に行う犯罪もだれも確信犯とは呼ばないと思います。という意味で「愉快犯は確信犯の一部」というのは少し行き過ぎた表現でした。
ただ、愉快犯は確信犯ではないかというとそうでもなく、深く考えた上で「法を破って快楽を追求してもいいんだ」という結論に至って法を破る場合は確信犯と言えるでしょう。
つまり、どんな要件が揃えば確信犯なのかです。要件は「深く考えること」であり、考えた結果出たことなら政治的とか宗教的とかいう言葉なしに確信犯であるといえます。

No.260) またまたわかりにくい表現で申し訳ございません。 祈月(Fri Jan 23 22:01:11 2004)
「その方が楽だから思わず〜」というのは「自分で悪いと思っていることをやることは不可能〜」と言うものに対する反証で、確信犯の定義一つとしてあげたものではありませんでした。
が、確かに本筋とはずれた話であり、現在の議論から言えば的はずれな事ですね。
話の腰を折るようで申し訳ございません。

さて、確かに愉快犯と確信犯はそれが違う言葉であるため、同時に適応される様な状況はあり得るでしょう(もっとも、愉快犯確信犯とか言う前に狂人呼ばわりされそうですが)。
その上で、確信犯とは「「深く考えること」であり、考えた結果出たこと」を“正しい”として行動する人を形容していると考えて良いかと思います。
と言う事は、それは本人が“正しい”と認識して居るわけで、少なくとも本人的には“悪い”事じゃ無いですよね。
さて、はるゆき様の意見は「分かっていながら悪いことをする」の悪い事は、本人が「悪い事」と認識した状態であり、尚かつ、にも関わらず遣ってしまう人の事を、確信犯と定義するのは誤用じゃないか、と言う事だと思うのですが如何でしょうか?
自分でもどう説明して良いか悩んでいますが、どうも「正しい」や「間違っている」が掛かっている部分がズレている気がします。

No.261) 誤用の定義は自己矛盾である iwatam(Sat Jan 24 01:03:30 2004)
自分の考えていた論点がずれていないようですので安心しました。

まず、「誤用」とは何かですが、
「考えた結果その行為は自分でもやってはいけない行為だと思うがそれをすること」
であるととりあえず定義してよろしいでしょうか。
すると次の質問は「そんなことは本当にできるでしょうか?」というものです。
つまり「するな!」と頭で考えたことを「する」ことです。
「思っていないことをやってしまう」ことはあるでしょうが、それは「思わず」「うっかり」なのでもともと確信犯から除外されています。

上の誤用の定義は
1) その行為は考えた結果である
2) その行為は考えた結果ではない
と互いに矛盾することを言っているわけです。
だから、上の誤用というのはそもそも成立しないのです。

なぜこんな矛盾が生じたのかというと、「悪いこと」を「自分でもやってはいけないこと」と定義したからです。そうではなく「社会的にやってはいけない行為」と定義すべきです。そして、そう定義すれば実は誤用ではないということになります。

No.262) はるゆき(Sat Jan 24 12:58:55 2004)
「法に触れるとは知らなかったが、熟慮の上正しいと考えて行動した」これは確信犯です。例えば幼少より外界から遮断され、洗脳的教育を受けてきた人物ならあり得る話です。ですから、「社会的・法的に悪いと知っていたか」は確信犯を論ずる上では関係ありません。また、悪いと知らされたとき「えっ、そうなの?」でも「そんな法は間違っている」でも、どちらも確信犯です。前者は確信犯だった人が考えを改めたというだけの話です。

「信念に基づいて行動する」と「信念に基づいて【正しいと信じて】行動する」は別の行為です。後者の場合のみ「確信」といえるのです。「万引きは悪いが、ばれなければ大丈夫」、これは信念ですが、万引きそのものを正しいと信じているわけではありません。心理学でいうところの「認知的不協和」を軽減するために心のバランスを保とうと言い訳を考えているに過ぎず、「確信」しているわけではないのです。

No.269) すみません。私の根本的な考え違いかもしれません iwatam(Sun Jan 25 02:22:10 2004)
「法に触れると知っていること」が確信犯の要件ではない、ということは知りませんでした。それを知らなくても確信犯と呼ぶのですか。
そうだとすれば全面的に認識を改めなければなりません。下の1+1=2もこの話ですよね?
例えば「えっ?自転車でも飲酒運転になるの?知らなかった」というのは確信犯ということでよろしいですか?

でも、そうすると、例えば一方通行の標識を見落として進入するのは「確信犯」ですか?(念のため。これは反語ではなく疑問です)
なお、これは「熟慮の上ではない」とは言えません。一方通行の標識がないのが普通です。熟慮を「その問題の答えを出すにふさわしいだけの考慮をすること」とすれば、問題自体が簡単でありそれにふさわしいだけの考慮をしたということですから。

つまり、法に触れるとは知らないことを「熟慮」できるのかというのがまた問題です。問題があること自体を知らないのだから、それについて考えることはできないのではないかという疑問があります。

No.266) またまた本筋からはずれた話 祈月(Sun Jan 25 00:25:39 2004)
>まず、「誤用」とは何かですが、
ええと、普通に考えるならば、「誤用」とは「本来の使い方とは違う使い方をしてしまう事」以外には無いと思うのですが。
で、ここで言っている「誤用」とは「本来の確信犯の意味とは違う使い方をされている」と言う事で、矛盾も何も無いと思うんですけど如何ですか?
それと、iwatam様が矛盾と言った事に関して、おもしろい事例を思いつきましたので、これは本筋として改めて書きます。
No.271) 誤用の例を知りたかったのです iwatam(Sun Jan 25 02:36:58 2004)
私の意見が「誤用している人はいないでしょ」というものなので、「いや、誤用がある」というのでしたら、世間の人(おそらく私も含めて)はどういう風に誤用しているのか知りたかったのです。
どういう例が「誤用」なのかです。私が「それは誤用ではない」と思うがあなたが「いや、それは誤用だ」という例を知りたいのです。
なので上の文を「これは私は誤用でないと思っていますが実は誤用ですか?」とたずねたのです。
一つ「法に触れるとは知らなかったが熟慮の上行動した」という例をいただきましたが、それについては上で書いたように納得いかないことがあります。
他にもっとよい例がありましたらお聞かせください。
No.267) またまた本筋からはずれた話 祈月(Sun Jan 25 00:25:42 2004)
>まず、「誤用」とは何かですが、
ええと、普通に考えるならば、「誤用」とは「本来の使い方とは違う使い方をしてしまう事」以外には無いと思うのですが。
で、ここで言っている「誤用」とは「本来の確信犯の意味とは違う使い方をされている」と言う事で、矛盾も何も無いと思うんですけど如何ですか?
それと、iwatam様が矛盾と言った事に関して、おもしろい事例を思いつきましたので、これは本筋として改めて書きます。
No.268) さて、この設問の意味はなんでしょう 祈月(Sun Jan 25 00:38:50 2004)
まず、次の状況を思い浮かべてみてください。
AさんがBくんに「1+1=1」と教えたとします。これは当然、間違っていますよね?
さて、この時、Aさんの状態を三つ揚げます。
それぞれ、「確信犯」の定義に当て嵌まるかどうかを考えてみてください。
1.「1+1=2」と言う定義を知らず、尚かつ「1+1=1」であると思ったため、そう教えてしまった。
2.「1+1=2」と言う定義を知っていたが、Bくんを騙すつもりでワザと「1+1=1」と教えた。
3.「1+1=2」と言う定義を知っていたが、「1+1=1」の方こそが正しいと思っていたのでそう教えた。

ポイントは確信という名の誤解です。
よろしければ答えてみていただけると幸いです。
尚、これに関する説明はちょっと時間をあけて月曜日の夜に書き込むつもりです。

No.272) 私の答えは iwatam(Sun Jan 25 03:04:46 2004)
3.は確信犯でしょう。そして1.は上で述べた問題なので保留(今のところ確信犯ではないと思っていますが、言葉の定義の問題)にしておきます。

問題は2.ですが、これは「騙す事は社会的には悪いことであるが、本当は正しいことだ」と思っていることならば、「1+1=1か2か」とは別の意味での確信犯です。問題はそう思っていない時です。この時、私は次の順に質問をします。なお、最初は○○=「Bくんを騙すこと」とします。
Q1) 「なぜあなたは○○が正しくないと思っているのにそれをしたのですか?」
A1.1) 「理由なんてない」と答えた時には考慮が足りないので確信犯ではありません。
A1.2)「それは××だからだ」と答えた場合には次へ進みます。
Q2) 「では××ならば○○をすることは正しいことですか?」
A2.1) ここでもしイエスと答えれば、それは確信犯です。
A2.2) もしノーと答えれば、○○=「××ならば○○をすること」と代入し直してQ1に戻ります。

この質問は相手が「考慮が足りない」と言うか「それは確信犯だ」と言わない限り終わりません。だから、「考慮は足りているが確信犯ではない」という結論は得られないことになります。

というわけで、2.が確信犯であるか?という問いには
a) Aさんの考慮が足りないならそれは確信犯ではない
b) Aさんが「自分の行為は正しいものである」と思ったならそれは確信犯である。
c) それ以外の場合には確信犯であるかどうかは決定不能である。
というのが私の答えです。

No.275) 祈月さんの説明を待つ間に はるゆき(Sun Jan 25 12:21:49 2004)
一方通行の標識の例は、今回の議論の対象外になると思います。「この道を通るのは正しいのだ!」なんていちいち考えてはいないでしょうから。本来、確信犯という言葉は宗教とか政治とかの日常生活から離れた状況において用いるものなので、あまり卑近な例で検証しようとすると違和感が生じるような気もします。

「本来の意味」の例です。ある宗教の信者が「我が教団に反対する奴は魂が穢れているのだ。このまま生かしておいても不幸になるだけだ。一度魂をリセットして、浄化せねばならない」こんなことを考えて人を殺しました。「来世で幸せに暮らすんだよ」なんて本気で信じて「いいことをした」と思い込んでいます。ここで重要なのは殺人自体を「いいこと」と認識している点です。「殺人は悪いが、教祖様には逆らえないから仕方が無い」では確信犯とは言えません。
また、こんな人物に法律云々言ったところで無駄ですよね(法律と教義との違いについてまったく考えていなかったとしても、「信念に基づいて正しいと信じている」ことには変わりありません)。

「誤用」の例です。これは「自分の行為が悪い結果をもたらすと分かっていながら、その行為を行う」と言い換えた方が近いかも知れません。
ネット上には「荒らしは無視する」というルールがあります(これの是非については論じません)。荒しに対して、初心者風の人物から注意する書き込みがあったとします。それがきっかけで掲示板はますます荒れてしまいました。
ここで掲示板の参加者が「こいつは初心者をよそおっているが、実は巧みに荒らしを挑発しようとわざとやってるんじゃないか?」と考え「おい、お前確信犯だろ?」と書き込んだとします。これが誤用です。

No.276) 日常生活から離れているかどうかの問題ではない iwatam(Sun Jan 25 12:54:42 2004)
私が違和感があるのは、宗教や政治を「日常生活から離れた状況」であるということです。宗教は本来人間の考え方の根本になるものですから、一番日常的なものであるはずです。政治もまた社会の根本ですから、一番日常的なもののはずです。
その上で、「殺人自体はいいことだ」と言うのと「スピード違反はいいことだ」と言うのと「荒らしはいいことだ」と言うのに何か違いはあるのでしょうか?という質問です。
「確信犯というのは高尚なもののことについて言うのであって卑近なことについては言えない」というのは私が当初から想定していた意見です。そしてそれについては「高尚か卑近かというのは個人が勝手に決めるものなのでそれを一般化するのはおかしい」と考えます。
No.277) はるゆき(Sun Jan 25 15:40:34 2004)
政治的な理由で信号無視したり、宗教上の理由で万引きしたりする人はあまりいないと思います。そういう意味で、何らかの思想上何か悪さをする状況はあまり日常的ではないと言ったのです。また「高尚か卑近かは個人の問題」だからといって、「普通は高尚な場合に使うというのはおかしい」とは言えないのではないでしょうか。キレイかブサイクかは個人の主観ですが「傾城」という言葉は美人にしか使いません。
でも「言葉の構造を探るという理屈の上では、卑近な例であっても確信犯といえる」これは別に否定しません。普通は言わない、というだけの話です。

卑近な例でも確信犯というならば「スピード違反」は確信犯でいいと思います。「周囲の車と同等のスピードでなければ事故になる。この状況では制限速度は守らなくて正解」このように考えたのならばです。ただし必要も無いのにスピードを出して「ばれなきゃいいや」では確信犯とは言えません。

「荒らしに注意する」に関しては、荒らしに注意した人物が本当に初心者で、かえって荒れることを予見できず「説得すれば分かってくれるに違いない」と考えたなら確信犯でしょう。
自分の書き込みによって場が荒れることを予見していた場合は、いたずら目的で書き込んだなら確信犯ではありませんが、もし「こんな悪いサイトは荒らして閉鎖させたほうが世の為だ=荒らしはいいことだ」と考えていたなら確信犯と言えるでしょう。

No.280) 政治も宗教も思想も特別なものではない iwatam(Sun Jan 25 17:58:39 2004)
「何らかの思想」というのはそもそも日常的なものです。日常をどう暮らすかという問題の答えが思想なのですから。「卑近な例には思想が入っていない」というのは間違いです。卑近な例にも思想は入っているのです。
あなたが万引きをしないのはなぜですか?その理由が「思想」です。だから逆にだれかが万引きする理由も「思想」です。思想は「高尚で特別で日常生活とかけ離れたもの」ではありません。
No.281) 初心者の注意は確信犯ですか? iwatam(Sun Jan 25 18:05:32 2004)
初心者の注意は本当に確信犯なのでしょうか。これは上で述べた「標識の見落とし」と同種の問題です。
初心者は「荒らしに注意するのはかえってよくない」という注意を見落としたのです。そして「荒らしに注意するのは本当によいことか」を考えなかったのです。いちいち考えないでなんとなくやってしまったことなのです。
これは確信犯と呼べるのでしょうか?これは確信犯と呼べて標識の見落としは確信犯とは呼べないとしたら、その違いはどこにあるのでしょうか?
No.278) はるゆき(Sun Jan 25 16:37:41 2004)
「殺人」なら確信犯だが「スピード違反」はあまり確信犯とは言わない理由です。
人を殺すのが悪いということは、誰もが理解しています。ですから、普通殺人事件があっても「金に困ってのことだろう」とか「誰かに脅されていたのだ」とか「衝動的なことだろう」とか考えるわけです。
殺人自体を「いいこと」と考えている人がいるとすれば、それは我々とはまったく違った思想体系を持っているということになります。「魂が穢れているから」とか「人口が増えすぎるのはよくない。成績の悪い奴や障害者は殺した方がいい」とか言われたところで、到底納得のいくものではありません。しかし当人は自分が正しいと信じているわけで、こういった場合、確信犯というのです。

「スピード違反」も自分が正しいと思っている点では同じですが、その理由は一般的な感覚でも十分理解できるものです。中には同情する人もいるでしょう。ですから、この場合は確信犯とはあまり言わないのです。

No.282) 上記事の中に私との違いが一つあります iwatam(Sun Jan 25 18:11:36 2004)
「魂が穢れている」とか「人口が増えすぎるのはよくない。成績の悪い奴や障害者は殺した方がいい」という意見を「到底納得できない」とすることです。私は「到底納得できない」とは思いません。それなりに納得できます。
なぜあなたはこのような意見を「到底納得できない」と決めつけるのですか?
No.279) 「確信犯」の正しい定義 iwatam(Sun Jan 25 17:46:31 2004)
「確信犯」の正しい定義ですが、実はこういうことなのでしょうか?

「我々全員で構成されている社会の中にある集団があり、その中では我々の社会のルールに反したルールを決めている。そして、我々全体のルールよりその集団のルールを優先することを確信犯と呼ぶ」
いかがでしょうか?

No.283) はるゆき(Sun Jan 25 20:54:47 2004)
初心者が荒らしに注意することは、本当に何も考えていなかった場合以外は確信犯でしょう。他人から見れば「うっかり」かも知れませんが、考えたり信じたりするのはあくまで本人です。本人が自分の正義感に基づき、注意することで事態が好転すると信じていたなら、それで十分確信犯の定義に当て嵌まります。

思想についてですが、私は自分が何故万引きをしないのかは深く考えたことがないので分かりません。実を言えば「何故人を殺してはいけないのか」も分かりません。「人命は尊いものだから」という人もいれば「『俺も殺さないから、お前も殺さないでくれ』という相互契約の思想に基づいているから」という人もいます。知識としてこのような考えがあることは知っていますが、どれが正しいかは分かりませんし、どれかを支持しているということもありません。ですから「卑近な例には絶対に思想は入っていない」とは言いませんが、入っていない場合も多いんじゃないでしょうか。
「卑近な例でも思想が入っているなら確信犯といえる」これには異議はありません。しかし「言葉のニュアンスとして、普通は卑近な場合には用いない」ということとは別問題です。

「魂が穢れているから殺した」が納得できない件ですが、理屈は分からないでもないが人を殺す理由にはならないと思ったので「納得できない」と書きましたが、これは「賛同できない」「合意できない」でもいいです。何が言いたかったかというと「魂が穢れているから殺した」という考え方が社会通念からは大きくかけ離れているということです。

「確信犯の正しい定義」ですが、まず「集団か個人か」は無関係です。個人的に「障害者は殺せ!」と考えてそれを実行しても確信犯です。
「自分(または属している集団)のルールを優先するのが確信犯」ですが「優先」とは相対的な言葉なので、確信犯からすれば「我がルールが唯一絶対」「他のルールは無視」「そもそも他のルールなんて知らない」などのパターンもあろうかと思います。何にせよ、自分(または属している集団)のルールに基づいて行動するということです。
ここで「政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる犯罪」という文化庁の定義に戻りますが…私にはどこに問題があるのかやっぱり分かりません。

No.284) 信念とは何ですか? iwatam(Mon Jan 26 00:51:10 2004)
それでは、2つ質問したいと思います。
1) 信念とは何ですか?
2) 「正しいと信ずる」とはどういうことですか?
No.285) 文化庁の定義が問題なのではありません iwatam(Mon Jan 26 01:10:07 2004)
「政治的・宗教的などの〜なされる犯罪」という定義が間違っていると言っているのではありません。
文化庁が間違いだと言った「悪いとわかっていながらなされる犯罪」も間違いではないと言っているのです。
No.286) うっかりミスは確信犯か iwatam(Mon Jan 26 01:49:00 2004)
それでは、次のことは正しいですか?
例えAをするとBという社会ルールに反するということを知らなくても、本人が信念に基づきAをすることで事態が良くなると信じていたなら、それだけで十分確信犯である。
A=「荒らしに注意すること」 B=「荒らしに注意してはいけない」とあてはめればこれはあなたが上で言ったことです。
そして A=「直進する」 B=「ここは進入禁止である」とあてはめれば進入禁止の標識をうっかり見落したことです。
なお、この場合「事態が良くなる」とは「目的地に早く着ける」であり、「信念」というのは「道は直進するものだ」ということです。そして、運転手はそれが正しいものであると信じています。だからこれも確信犯のはずです。
No.287) はるゆき(Mon Jan 26 22:38:17 2004)
過去発言の修正も兼ねて、一度整理してみます。「荒らしに注意」ですが、この場合の「信念」は「迷惑になる行為はしてはならない」「悪さをする人には勇気を持って毅然とした態度をとる」などの正義感です。それに基づいて「荒らしに注意する」を正しいと信じたことになります。
「標識の見落とし」の場合の「信念」は、運転手が「目的地に早く着きたい」と考えていたとするなら「時間は大切だ」になると思います。それに基づいて正しいと信じたのが「この道を直進する」です(「道は直進するものだ」が「信念」でもいいのですが、そんな人本当にいるのでしょうか? 私が卑近な例を避けたいと思ったのは、例が非現実的になって、ワケが分からなくなるからです)。
「何も考えていなかった」のではなく、本当にこれらの図式が成立するのなら、それは確信犯ということになるでしょう。

人間誰しも、自らの行動の基礎となる思想がある…これには同意します。イスラム教徒や共産主義者なら信仰や主義、そのような特別な名のついたものを持たない人にだって、自分なりの価値観や倫理観があるでしょう。ただし、これだけでは「信念」とは呼びません。信念と呼ぶには、これらの思想なり価値観なりを「正しいと信じて」いなければなりません。
自分の思想なり主義なりを「この考えはまったく本当だ。疑う余地などまるでない正しいことだ」(=「正しいと信じる」)と思っていたなら、これは信念でしょう。「熟慮したか」は関係ありません。考えがどんなに稚拙なものであっても、それは程度の差に過ぎません。
しかし「自分なりに考えた末の結論だが、絶対にそうかと問われれば自信がない」「本当はそう思い込もうとしているだけなのかも知れない」と答えたとすれば、信念とは呼べません。

No.289) 答え合わせと解説 祈月(Tue Jan 27 01:35:08 2004)
さて、時間があいている間にずいぶんと議論が進んでいるようですがそれはひとまず置いておいて、設問に対する回答と、その意図を書かせて頂きます。
 
 3に関しては議論の余地が無く、本来の意味での確信犯です。
 1はiwatam様は「保留だが、確信犯では無いと思う」と答えられてます。が、確信犯の定義の一つであるである「そう確信して誤った行動をしてしまった」に照らし合わせるので有れば、それは本来の答えを知る知らないに関わらず、確信犯といえるでしょう。確かにこれは本来の答えを得てい無い以上、結果として「考慮」が足りていませんが、だからといって「深く考えていない」とは定義できませんし結果を固く信じているならばそれは「確信」していると言えます。(追加。厳密に言うならば、こういう人の事は「確信犯」ではなく「過失犯」と表現するのが正しいでしょう。が、まぁ、本義論で必要以上に分類を増やすのもなんなのでこの様な表現にしました)
 そして、此処で一番議論のズレに直結していると思われる2ですが、少なくとも問題にある文章“のみ”から判断するならばこれは確信犯ではありません。なぜならば、この状況にAさんは“自分が教えた内容”を“信じておらず”かつ“騙す”つもりでそれを教えています。また、騙すという行為の是非は、この文章に於いては明言されておらず、それを持ち出した上で判断するのは適当では無いと判断しています。
 
 iwatam様の言葉の中に多くみられ私が違和感を感じている事の中に、物事の本質を見極めようとするあまり、状況を必要以上に分解している事があります。
確かに物事を考える上で熟慮は必要ですが、状況を細かくしていく課程で失われてしまうものもあるのです。
 iwatam様の場合、“その行動”の善し悪しを結果として無視して、“悪い行動をとる事”に対する善し悪しという一つ飛び越えたものを引き出して議論にしてしまっています。
 もちろん、それが本当に“悪い行動をとる事”が目的で行動そのものは何でもかまわないならば、そこまで考慮した上で考える必要があるでしょう。
 そういう意味に於いてiwatam様の様により細かく分析する必要が出てくる局面もあり得ます。
 それなら「それが何なのか判断されない限り誤用なのかどうなのかも判断できないんじゃないか」と思われるかもしれません。でもその対象を「確信犯」と表現したときに、それがそこまで考慮した結果、もしくはそれを対象として表現しているのでしょうか? 少なくとも、私や、恐らくはるゆき様が「誤用」と判断しているのはそこまで考慮されていないにも関わらず、そう表現する事に対してです。
 また、逆に発言者の意図を無視して「そう捉える事も出来るのだから」と言ってしまうのは、逆の意味で間違いと言えるのではないでしょうか?
 
 多くの方が誤解し、またiwatam様も少々誤解しているような気がするのですが、「確信」と言う言葉には「物事を信じて疑わない状態」を指した言葉であり、「それが間違いあるかどうかを知っている」と言う意味は含まれません。
 ですから結果として間違った答えでも信じているなら「確信している」、逆に正しい答えを知っていてもそれに対して懐疑的ならば「確信していない」と捉えるのが正しいと言えましょう。
 
 ともあれ、「確信犯」とは「一般、もしくは社会に於いて間違っている事を、正しいと「確信(誤解?)」して、行動してしまった」が故に呼ばれるもので、「間違っている、と言う事を「確信」して、ワザと行われた」場合には適応するべき言葉ではない、と言えるのではないでしょうか。
No.290) 「善し悪し」とは何でしょう? iwatam(Tue Jan 27 12:49:58 2004)
ご回答ありがとうございます。
おそらく、違いの根本にあるのが「善し悪しとは何か」という定義だと思います。
私は、「正しさ」を「人間の行動の基準」と定義しました。「その行動をした方がよいと思う」=「正しい(と信じる)」という定義です。
どうやらここにそもそも食い違いがあるように思うのですが、あなたの「正しい(と信じる)」の定義は何ですか?
No.292) 祈月(Wed Jan 28 02:48:16 2004)
 そうですねぇ、私の「正しい」ですが、行為に関して言えば以前も書き込みしましたが「道義的社会的正義に沿っているか否か」ですね。
 
 それと、私が違うと表現したのは「定義の違い」でなく「焦点の違い」です。
 たとえば件の設問に関して、私が判定の基準に使ったのは「騙した」か否かでした(1と3はあくまで自分が信じているものを教えたに過ぎず、その意図はなかった。が、2は騙すつもりでいた)。私は「騙すという社会的に悪い事と定義されている行動を取ったか否か」を焦点にしているのに対してiwatam様は「騙す事は悪い事か否か」を焦点にしています。
 もちろん、対象を「騙す事を悪いと思っていない人間」だとした上で確信犯と表現するならば問題はありません。が、そのような意図で無いものまで、そのように受け止めるのは間違いでしょう。
No.293) 正義とは何でしょうか? iwata(Wed Jan 28 04:08:09 2004)
「正しい」=「正義」というのは全くの同語反復です。そうお答えになるのでしたら、今度は「正義とは何でしょう?」と聞かなくてはなりません。
私が指摘したいのは、ただ一つの「社会的正義」があるという幻想です。そんなものがどこにあってどう決まっていますか?
もし唯一の社会的正義なんてものは存在しないと思っているなら、「社会的正義に反して」などと言えないのです。せめて「自分が社会的正義だと思っているものに反して」としか言えないのです。
騙したということは、どこか心の奥底で「騙す事を悪いと思っていない人間」であるということなのです。これは意図の問題ではありません。無意識のうちに行われるものも含みます。
No.294) はるゆき(Wed Jan 28 19:49:38 2004)
そもそも、「衝動的な犯罪や何も考えない犯罪は考慮の対象外」という前提ではなかったでしょうか? 「無意識」とは何も考えていないということだと思うのですが、「騙すのは悪いなぁ」と思いながらその先はあまり考えずに人を騙した場合はどうなるのですか?
No.295) 何も考えない犯罪は対象外でいいんですね? iwatam(Wed Jan 28 20:30:27 2004)
私は何も考えない犯罪は対象外だと思っていましたが、「いや、そうではない」という話だったのでこうお尋ねしたわけです。というのは、「ルールを破っていることを自覚している必要はない」という話だったからです。
普通、確信していることは自覚しませんので、意識には上ってきません。だから、あることを確信していてそれがほかのルールに反していることを知らなければ、それは考えていないということです。
例えば、あなたは道を歩くときに蟻を踏み潰しているかどうかを意識して歩かないでしょう。とすると、「人を殺す(ポア)ことは救済である」と説く宗教を信じ込んでいたら、いちいち「人を殺すのはいいことなのだろうか」と意識して殺人をしはしないでしょう。彼にとって人を殺すことはわざわざ考える必要もなく当たり前のことなのです。
よく考えてみればもともとの定義文には「何も考えない犯罪は対象外」とは書いていなかったので、そこもどうかと思った点の一つです。
No.296) あまり考えなかった場合には iwatam(Wed Jan 28 20:33:05 2004)
あまり考えずに人を騙した場合には、「悪いなあと思っていてもあまり考えずに行動してよい」と(無意識あるいは意識的に)肯定したことになります。
No.299) はるゆき(Wed Jan 28 22:33:44 2004)
「何も考えていない場合」「無意識」「自覚していない」「心の奥では…」といった話は対象外でお願いします。といいますか、私は最初の書き込みから一貫して「本人が意識している」という前提で書いています。「ルールを知らなかった」としても、本人は自分の信念を自覚しているということです。
また「確信」は普通自覚しないとのことですが、例えば神の存在を確信している人物は、当然自分でもそのことを認識していると思うのですがどうでしょうか?
No.300) あ〜、まさかそんなレベルですれ違っていたとは 祈月(Thu Jan 29 01:13:28 2004)
 まず、「社会的正義があると言うのは幻想です」に関して。
 私も「統一された社会的正義」があるとは思ってませんし、そんなものが有るとも言っていません。それどころか、私自身が「正しい」の定義に入れた「社会的」と「道義的」正義は時には相反する事すら有ります。
 それじゃ、完全な「正しい」ってのは無いじゃないか、とおっしゃられるかもしれませんが、全く持ってその通り。じゃ、確信犯における正しいと間違っているはどう定義するのか? そりゃ簡単な話、対象を「確信犯」と表現した人間の正義で良いわけですよ。
 例えば仮に「人を殺しても良い社会」が有ったとするならば、その社会に於いて殺人は少しも悪い事では無いのですから。
 でも、私の帰属する社会に於いては人を騙す、人を殺すなどの行為は悪い事と定義されているはずですし、 iwatam様の帰属する社会でもそうだと思うのですが、違うのですか?(もちろん、これらには「例外」が存在します。が、「例外」はあくまで「例外」で、スタンダードにはなり得ません)。
 
 次に「騙したということは、どこか心の奥底で「騙す事を悪いと思っていない人間」であるということなのです。これは意図の問題ではありません。無意識のうちに行われるものも含みます」に関して
 私の揚げた例に関して言えば、そんなものを対象にしては居ません。そもそもこの言い方であれば逆に「人を騙したときに、罪悪感を覚える人間は、どこか心の奥底で「騙す事を悪いと思ってる人間」であるということなのです。これは意図の問題ではありません」と言えてしまいます。でも、行動している以上、iwatam様の理論で言えば「騙す事を悪いと思っていない人間」の筈なんですよね?
 というか、この論調では
 「この刃物は先が鋭いと言うが、何億倍にも拡大したら曲面になっていた。故にこれを鋭いと定義するのは謝りである」
 とか
 「ここに描かれた四角と言うが、何億倍にも拡大したならば更に多くの角が確認できた。故にこれを四角と定義するのは間違いである」
 とか言えてしまいまうわけです。
  
 次に「確信」という言葉に関して。
 「普通、確信していることは自覚しませんので、意識には上ってきません」そんなものを「確信」とは呼びません。辞書で調べれば判りますが確信とは「かたく信じて疑わないこと。また、その信念」。更に信じる(正確には信“ず”る)は「疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。疑うことなく、たよりとする。信頼する。神仏などをあがめ尊び、身をまかせる。信仰する」と基本的に自覚のある状態を指します。
 また、一貫して私もはるゆき様もそういうスタンスで記述していますが、いつから「普通自覚しない」なんて定義になったのですか?
 これに限った話ではありませんが、原則を無視し、例外に頼って理論を構築してもその正確な姿を捉える事はできません。
 
 更に更に「私は何も考えない犯罪は対象外だと思っていましたが、「「いや、そうではない」という話だったのでこうお尋ねしたわけです。というのは、「ルールを破っていることを自覚している必要はない」という話だったからです」に関して。
 私も、何も考えない犯罪は対象外にしています。というか、これは私が件の問題で例に挙げた1の事をもしかして指してますか?
 再度、記述しますが、「1.「1+1=2」と言う定義を知らず、尚かつ「1+1=1」であると思ったため、そう教えてしまった。」と、有るようにあくまで「Aさんは正しい答えを知らなかった」だけで、考えていないわけではありません。
 また、3の場合は「考えてもこっちが正しいと思った」というものです。
 これを評して「迂闊」とか「うっかり」とか言うのは勝手ですが、考えていないと表現するのは明らかに間違いです。
 
 あと「よく考えてみればもともとの定義文には「何も考えない犯罪は対象外」とは書いていなかったので、そこもどうかと思った点の一つです」に関して。
 これは、かなりおかしな話です。そもそも定義とは「ある概念の内包を構成する諸属性のうち、本質的な属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。普通、定義は当該概念(例えば「人間」)の最近類(この場合、人間の最近類は「動物」)と種差(この場合は人間を他の動物から区別する「理性的」という種差)を挙げることによって成り立つ(この場合「人間は理性的動物である」が定義)」と有ります。
 逆に言えば「それに当て嵌まらない条件」をいちいち並べ立てる必要はありません(というかそもそもそんな事は不可能です)。
 
 これらの条件をもう一度満たしてから、私やはるゆき様の発言を読み直してみてください。少なくとも、私達の立脚点が明確に判るはずです。
 逆に、これらの例に於いてもiwatam様に違った考え方があり、尚かつその理由があるならば提示してください。
 現状で、これ以上の論議は、相手の考え方をもっと明確化しないと無駄に水掛け論を続けるだけとなるでしょうから。
No.302) いろいろ脱線しましてすみません。 iwatam(Thu Jan 29 21:25:49 2004)
まず、私がかなり話を脱線させたことをお詫びします。しかしこれでだいぶわかってきました。
まず、もう一度繰り返しますが、本来の定義が間違っていて誤用の方が正しいと言うつもりはありません。そしてあなたがたのおっしゃるような意味がもともとの語義であることもその通りだと思います。
では何を議論しているのかというと、なぜこれが誤用されるかです。そしてそれが「役不足」のようにまったく見当違いの誤用なのか、それともよく考えればつじつまの合った誤用なのかです。そして、つじつまが合っているのならそう誤用とも言えないのではないかという話です。
ここでは2つのことを問題にしています。
1) 自分の行為が犯罪であることをわかっていながらそれを犯すときには、必ずそこに自分の行為への確信があるのではなかろうか
2) 自分の行為が犯罪であることを知らないでそれを犯すときには、そこに「考える」という行為は発生しないのではなかろうか
1)については、こんなことを考えて見てください。
あなたは憎い相手を殺そうと考えました。相手に包丁をつきつけますが、それでも殺人を犯すには抵抗があります。こんな時が自分の行為を悪いことだと思っている状態です。
あなたは相手と包丁を見比べながら葛藤します。
しかし、そのうち決心をつけたとします。「もうどうにでもなれ」でも「俺に嫌味ばかり言うこいつが悪いんだ」でも「こいつを殺して金を奪って俺は幸せになるんだ」でも何でもいいです。そして一思いにえいやっと包丁を突き立てます。
さて、あなたがさんざん「悪いと思っているなら確信犯ではない」と言っている状態は、最後の決心がつかないで迷っている状態です。こんな状態では人は殺せません。人を殺すには、えいやっと決心する必要があります。その決心こそが「信念」なのです。
とすると、犯罪を犯せたということはそこに信念があったということです。
もしやってしまった直後に罪悪感におそわれたとしたら、それは単に信念が変わっただけです。
2)については、
「考える」とは何だろうかと考えてみてください。
考えるとは「さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする」と辞書にあります。つまり、様々な材料がなくてはいけないわけです。
「1+1の答えはいくつですか?」と聞かれた時には、1か2か3か・・・の中から正しい答えを導き出すのです。もし数字を1しか知らなかったら、つまり答えの可能性を1通りしか知らなかったら、それは考えようがありません。
「信じる」と「考える」は相反する言葉です。「信じる」というのは理屈抜きである一つの事柄だけを正しいとするのに対して、「考える」というのはいくつもの可能な答えの中から自分で道筋に沿って正しい答えを選び出すことにあたります。
考えるにはまず疑問に思わないといけません。つまり「本当は自分の思いこんでいることは間違っているじゃなかろうか。正しい答えは別のところにあるんじゃなかろうか」と思わないと考えることはできません。
こういう意味で「考えない犯罪は確信犯ではない」というのは合っているでしょうか?
No.303) はるゆき(Thu Jan 29 22:20:59 2004)
元々のコラムの意図は「文化庁の調査に問題は無いが、このように考えることは出来ないだろうか?」ということですか? 私にはそうは読めなかったです。
まず、「正しい定義」を調査のために文化庁が決めたように読めること。当然のことながら、確信犯という言葉は調査以前から法律(刑法)の分野で使われていた用語であり、たいていの辞書にも似たような意味が載っている訳です。
もう一つ変に感じたのは、「設問自体が悪い」という結論から、文化庁の調査が「A.Bどちらの意味が正しいですか?」という形式で行われたように読めること。調査は面接方式で行われているので、質問は「確信犯とはどんな意味ですか」という問いかけに自由に答えてもらい、その後統計を取ったものです。「分からない」と答えた人やまったく違う回答をした人もいた中で、正解と誤用の2つが特に多かっただけの話です。

誤用でも辻褄が合うのでは、とのことですが、祈月さんもおっしゃられているように、例外を元に理論を構成するのはどうかと思います。
1)ですが、無意識を対象外とする以上、「えいやっ!」とするときには必ず意識的に正しいと考えている必要がありますが、そんなことはありえません。
2)は「1+1は1だろうか?それとも2だろうか?」と「考えた」結果「1」だという結論に達し、その自分の判断を「信じた」のなら何も相反することはありません。

No.304) そもそも 祈月(Fri Jan 30 00:39:03 2004)
「それともよく考えればつじつまの合った誤用なのかです。そして、つじつまが合っているのならそう誤用とも言え

ないのではないかという話です」
 ええと、小学生の頃、算数で先生から「答えだけが合っていても計算課程が間違っていたら丸には成らないからね

」とか言われませんでした?
 そもそも世の中には「確信犯」と「そうでないもの」という定義しか無いわけではありません。だから、本来違う

ものをわざわざ「確信犯」の範疇に入れる必要はありません。寧ろ、それによって違う意味を加えてしまっては、し

かもそもそもの意味と逆の意味を加えてしまっては、言葉そのものの意味を失ってしまいます。
 たとえば、「水」と「アルコール」を例にすると、どちらも「高温では気体、常温では液体、低温では固体の特性

を持つ」物体です。しかし、だからといって「水」と「アルコール」を同じものであると定義しては間違いとなりま

す。つじつまが有っているからと言って本質的に違うものをわざわざ同じカテゴリーで表現する必要は無いのです。
 というか、そういうものを世間一般では「こじつけ」とか「詭弁」とか言います。
 
 「人を殺すには、えいやっと決心する必要があります。その決心こそが「信念」なのです」
 それを決心と呼ぶ事はやぶさかではありませんが、なんでそれが「信念」になるんですか? その決心を信念と定義した理由を提示してください。尚、全文を読む限りで言えば、計画的ではあるものの、動機はかなり衝動的だと思いますが如何なもので?  また、殺人の様にある意味、その行為がほぼ一瞬で終わってしまうものは兎も角、詐欺の様に「罪悪感を持ってい

ながら現在進行形で騙している」なんて状況のあるものも有るのですけど、この場合はどう定義します?
 そもそも、そんなころころと変わってしまうものを「確信」という定義に入れてしまう事自体、無理があります。

 あと、「考える」と「信じる」は確かに同一対象に対して、同時に起こりえる心理状態ではありません。しかし、

はるゆき様も言われていますが、「考えた」結果を「信じた」ところで何の問題もありません。というかわざわざ、

「妄信(むやみに信ずること)」とか「盲信(わけもわからずに信じること)」という言葉が存在している事をお察

しください。
 それと「考える」の定義に関しても「さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする」と

あるそうですが、この「さまざまなこと」の中に正解が無くては成らないなんて事はありません。だから結果が間違

っているからと言って、考えていないなんて事は当然ないのです(いや、それこそスパルタな先生は簡単な問題を間

違えると「本当に考えているのか?」と怒りますが(苦笑))。
 
 「こういう意味で「考えない犯罪は確信犯ではない」というのは合っているでしょうか?」
 これに関しては、微妙ですね。この「考えない」が「衝動的」という意味“のみ”で有ればその通りだと思います


 が、私とiwatam様の「考える」の定義が微妙にずれている状態では、恐らくこの「考えない犯罪」も微妙にずれて

いると判断できるのですが如何なものでしょうか?

(追記、中程の文を一度修正しております)

No.306) 意味の食い違いについて iwatam(Fri Jan 30 03:22:57 2004)
それでは、あなたの使う言葉の意味を教えてください。
「考える」「(信ずる)」「正しいと思う行動」「確信」「信念」おそらくすべて少しずつ意味がずれているのだと思います。
「考える」「信ずる」はお話しましたので、残りの言葉の定義についてお話します。
「信念」とは、行動の基礎となる態度と定義しました。つまり、その行動をしたことに対する理由となるものです。単に「正しいと信じて疑わないこと」という意味だけではありません。「1+1=2」というような単なる知識は信念とはいいません。
「確信」とは、ある事に対して疑念を抱かず、考えるまでもなく正しいと思えることです。
「正しいと思う行動」とは、自分がとれるいろいろな行動を比べて、今一番すべきだと思う行動のことです。
なお、「考える」という言葉に対して補足ですが、あなたのおっしゃるように正解を出さなければいけないということではありません。様々な他の可能性も合わせて検討するということが重要なのです。「結果が間違っているから考えてない」とは言っていません。「盲信」は考えたうちに入らないと言っているのです。
私の出した上の言葉の定義をご検討いただき、もし違う箇所があればあなたの定義をお聞かせください。
No.305) 新聞では iwatam(Fri Jan 30 02:56:32 2004)
文化庁の調査は「5つの設問の中から選んでもらった」と書いてありました。自由に答えてもらったわけではないようです。
ところで、1)と2)は対です。1)で「必ず意識的に正しいと考えているということはありえない」と書かれていますが、なぜですか?無意識だということがあるからですか?それとも「意識的に間違っていると考えている」ことがあるからですか?
後者だったら行動は始められないはずです。
そして2)については、「考えた結果信じたなら相反しないが、考えないで信じている場合は相反する」というお返事だととってよいですか?
No.288) 補足 はるゆき(Tue Jan 27 00:01:50 2004)
ものの順序として「初めに信念ありき」ではないでしょうか。「常に正直であれ」という信念を持っている人がいて、「嘘をつかないと生活できない」という事態に遭遇した場合、「これくらいの嘘ならいいや」と思ったならそれは「信念を曲げた」と言わないでしょうか?
No.291) 信念は変化しないか iwatam(Tue Jan 27 12:53:03 2004)
曲げた後の信念は「信念」とは言わないのでしょうか?
その定義だと、信念は絶対に変化しないように見えます。信念は変化してはいけないものなのでしょうか?
No.307) はるゆき(Sun Feb 1 22:16:20 2004)
私は「信念」とは「行動の理由」の中でも、目的や動機となるものをいうと考えます。例えば「理想の国家を樹立する」という「理由/目的」で人を殺した…なら理由でも目的でもどちらも意味は通りますが、「仕方が無い、これくらい許される」という「理由/目的」で人を殺した…だと、理由なら意味は通りますが目的だと訳が分からなくなります。ですから、前者は信念ですが、後者は信念でないことになります。

「初めに信念ありき」というのは、「信念に基づく犯罪」を「信念を動機とする犯罪」と読み替えてのことです。初めに動機が無ければ、犯罪を行うことは出来ません。
No.288の例は、あまり的確でなかったですね。「信念は絶対に変化しない」という意図はありません。

No.308) 動機のあるなしが問題ですか? iwatam(Mon Feb 2 02:06:12 2004)
当然、行動をするには何かの理由があります。「おりた保険金で借金を返すため」とか「毎日小言を言われ続けてこのままじゃ自分が精神的にダメになると思ったから」とか。これらは信念ですか?
「信念とは行動の理由の中で目的や動機となるものである」という定義でしたら、「信念を動機とする犯罪」というのは同語反復です。これはつまり、「動機のある犯罪」ということでしょうか?
No.309) はるゆき(Mon Feb 2 21:23:33 2004)
いえ、もちろん「行動の理由の中で目的や動機となるもの」のうち、「正しいと信じているもの」です。
iwatamさんの「信念」の定義に「動機・目的」を加えた形です。
「借金を返す」は信念ではありません。
動機の無い犯罪は、衝動的なものや過失によるものですから、議論の対象外でしょう。
No.311) 信念とは iwatam(Tue Feb 3 12:40:50 2004)
わかりました。信念とは「行動の理由の中で目的や動機になり、正しいと信じているもの」ですね。
そこでお聞きします。「正しいと信じている」というのはどういうことでしょうか?
No.310) 「信念を動機とする犯罪」は変です iwatam(Tue Feb 3 12:34:33 2004)
「信念を動機とする犯罪」という言葉は変です。信念とは動機の一種なのですから。信念であればそれを動機とするに決まっています。
「信念のある犯罪」と言っておけばいいのではないでしょうか?
No.312) もう少し話を前に転がしませんか? はるゆき(Wed Feb 4 21:05:35 2004)
単刀直入にお伺いしますが、「現時点で」くだんのコラムの内容を見直す意思はありますか?
「ある」なら、具体的にどこを直すべきと考えているか教えてください。
「ない」「もう少し議論を続けないと分からない」ということであれば、これから議論を続けていく自信がありません(何も伝わっていないということなので)。
No.313) 現時点ではノーです iwatam(Wed Feb 4 22:32:31 2004)
現時点では、見直す意思はありません。
なぜなら、あなたと私とで論点がずれているからです。
「間違っている」あるいは「書き足りなかったことを認識した」のであれば見直しますが、単にずれているだけのように私には見えますので。
念のために繰り返しておきますが、あのコラムの主張はどっちが正しいとかどっちが間違いとかいう問題ではなく、「信念とか信じるといった言葉はよく考えると難しい言葉だぞ」と言いたいのです。そしてそれをよく考えもせずに正しい間違いを言ってはいけないといっているのです。
ですから上のような問いをしているのです。
もし議論をおやめになるということでしたら残念ですが仕方ありません。今までおつきあいいただきありがとうございました。
No.314) はるゆき(Sat Feb 7 13:20:52 2004)
それでは、「信念」「信じる」などの意味はさて置いて、明らかに間違っている部分に話を絞ります。
すでに少し書いていますが、「考えたか」「ルールや法律を知っていたか」は確信犯の要件ではありません。過失犯は確信犯とは呼ばないことからそのように考えたのでしょうが、「犯行の時点で、自分の行いを正しいと思っている」という点では両者はまったく同じです。法に触れることを知ったとき「知らなかった、そんなつもりはなかった」と思うのが過失犯、「そんな法があったとしても、私の信念は変わらない」と思うのが確信犯、と呼び分けるだけの話です。「考えた上での犯行かどうか」は関係ないのです。
補足すると、「盲信」であっても確信犯です。むしろ政治犯や信仰上の理由での犯行はその方が多いでしょう。
百歩譲って、「考えたか」が確信犯の要件だったとしても、それは「ルールや法律を知っていたか」には結びつきません。「考える」の意味について「いろいろな行動」とか「様々な他の可能性」など数に拘っているようですが、「正解(=ルールや法律)を含む3つの可能性」について検討すれば考えたことになるが、「正解を含まない4つの可能性」について検討した場合は考えたことにならない、ではおかしいでしょう?
No.315) 考えるのは要件に入るのですか? iwatam(Sat Feb 7 23:44:31 2004)
譲っていただかなくても結構です。「考える」は確信犯の要件に入るのですか?あなたはここでは「考えてない犯罪も確信犯に入る」と言っていますが、上のほうでは「入らない」といっています。
いったいどっちなのでしょうか?
No.317) はるゆき(Sun Feb 8 00:08:25 2004)
「考える」は確信犯の要件ではありません。上の方で私が逆のことを書いているとのことですが、それは「何も考えていない犯罪=衝動的な犯行」のことかと思われます。
この場合の「何も考えていない」とは「頭の中がからっぽ」ということであり、何かを信じるといった心の働きも無い状態です。ですから、「自分の行為を正しいと思っている」という確信犯の要件に該当しないのです。
No.319) これを言うと iwatam(Sun Feb 8 02:44:38 2004)
そう言うと、上であなたが嫌がった「正しいと信じるとは何か」という質問になってしまいます。
この話をするのが嫌なら、そうは言わないことです。
No.321) はるゆき(Sun Feb 8 10:48:36 2004)
何にでもケチをつければいいというものではありません。上での「何も考えていない」は「何も意識していない」の意味で使っています。「考える」「信じる」「思う」は言葉の意味はどうあれすべて本人が意識しているということです。
No.323) ケチと決め付けるのは勝手ですが iwatam(Sun Feb 8 11:59:18 2004)
ケチだと決め付けるのは勝手ですが、それは「私にもわからない」という意味だととっていいですか?
あなたは行動する時に正しいことをいちいち「意識」しますか?
歩くときに左足と右足を交互に出すことを意識しますか?
歩くときに蟻を踏み潰していないかどうか、そして小さい命を本当に潰してしまっていいのかどうかをいちいち意識しますか?
もしお金というものを知らない人が日本に来たとしたら、店先に並んでいる商品を勝手にとっていくことをいちいち意識するでしょうか?
意識するためにはそれを意識しなければならないものであると認識しなくてはなりません。それが問題意識です。まったく問題に感じないことを意識することはできません。
No.325) はるゆき(Sun Feb 8 16:57:39 2004)
そのようなケースは「議論の対象外」と言っているのですが。
No.330) これはつまり iwatam(Sun Feb 8 22:14:13 2004)
私は「ある事柄を考えたり信じたりするためには問題意識が必要である」と述べました。
問題意識を持つためには、その事柄について選択肢がないといけません。すなわち、別の見方で見るともしかしたら悪いことなのかもしれないと思うことです。
「そのようなケースは議論の対象外」というのはつまり、それが悪いことかもしれないとは思わずそれを信じきっている場合は議論の対象外ということでしょうか。
No.335) はるゆき(Sun Feb 8 22:54:52 2004)
アリのケースで説明します。私は普段歩くときにアリの存在を意識していません。ですから、アリを踏んでいたとしても「故意はない」ことになります。これは議論の対象外です。ではストレス解消のためにわざわざアリの存在を知って踏みつけているとしたら…これは故意がありますから、議論の対象になります。
「悪いことかもしれないとは思わずそれを信じきっている場合」これは議論の対象になります。といいますか「信じるためには問題意識が必要」なら、「悪いことかもしれないとは思わずそれを信じきっている場合」には問題意識はあるのでしょうか、ないのでしょうか?「信じきっている」も「信じる」ことだと思うのですが。
No.340) 信じることそのものに問題意識はない iwatam(Mon Feb 9 22:30:33 2004)
「悪いことかもしれないとは思わずそれを信じきっている場合」には問題意識はありません。そして、「信じきっている」も「信じる」ことです。そして、「信じる」ことには問題意識はありません。
以前こう書いたとき、「考えた結果信じるという場合もあるじゃないか」という反論がありました。その通りです。ですから正確に言うと「信じる」という行為には問題意識のある場合とない場合があります、という回答です。つまり信じるということには問題意識は関係ありません。
No.344) はるゆき(Tue Feb 10 23:23:16 2004)
整理すると、
「考える」ある認識に対し問題意識を持っている状態
「信じる」ある認識に対する問題意識が希薄である状態
「確信している」ある認識に対する問題意識がまったくない状態

どうでしょうか?

No.347) 信じるとは何か iwatam(Wed Feb 11 02:03:02 2004)
大野晋氏の「日本語練習帳」では次のように書かれています。以下の文では「信じる」ではなく「思う」と書いてありますが、同じものだと思ってください。
「つまり、「思う」とは、一つのイメージが心の中にできあがっていて、それ一つが変わらずにあること。胸の中の二つあるいは三つを比較して、これかあれか、こうしてああしてと選択し構成するのが「考える」。」
選択と構成のことを私は「問題意識」と呼んだり「選択肢」と呼んだりしてきました。
このように、「考える」と「思う」は質の違うものです。そして「信じる」は強く思うことであり、「確信する」はさらに強く思うことです。「思う」と「信じる」と「確信する」の違いは、一つのことがどれだけはっきりと心の中にあってどのくらい変わらないかという程度問題です。そしてどれも問題意識とは関係がありません。
考えた結果信じるということもあるでしょうし、考えなくて単に信じるということもあるでしょう。
No.327) はるゆき(Sun Feb 8 17:11:35 2004)
補足すると、意識しているかしていないかは「本人に聞いてみないと分からない」です。
No.316) つまりこういうことですか? iwatam(Sun Feb 8 00:05:16 2004)
「悪いとわかっていながらする犯罪」ではなく「悪いとわかっていたとしてもやったであろう犯罪」でしょうか。
これなら話はわかりますし、違いもわかります。
No.318) はるゆき(Sun Feb 8 00:51:36 2004)
「悪いとわかっていたとしてもやったであろう犯罪」、そう考えて頂いて結構です。ただし、あくまで「やったであろう」ですので、「それは○○罪に該当するので死刑だ」ということを知ったがために犯行を断念する、というケースもありえます。
No.320) 犯行を断念したケースは iwatam(Sun Feb 8 02:49:05 2004)
断念したのは犯罪ではなく、確信犯でもありません。
何もなかったということです。
確信犯というのは、犯罪を行った時点では決まらなくて、当人がそれが犯罪であることを知ったときに初めて決まる、というのは正しいでしょうか?
No.322) はるゆき(Sun Feb 8 10:49:49 2004)
状況証拠から確信犯であるかは判断できるでしょうが、結局は本人に「何でそんなことをしたのか」を聞いてみないと分からないですね。ただ、「犯罪である」ことを知らせなくても、「信念に基づいて正しいと信じている」かを確認できればいいと思います。
No.324) それだけでは不十分です iwatam(Sun Feb 8 12:20:30 2004)
「何でそんなことをしたのか」を聞くだけでは不十分です。「それが犯罪である」ことを伝えて「それでもまだ正しいと思っているか」と質問しないといけません。
犯罪であることを知らせるまでは過失犯と確信犯を区別できないからです。「犯行の時点で、自分の行いが正しいと思っている」という点では両者とも同じだからです。
No.326) はるゆき(Sun Feb 8 17:01:25 2004)
では「犯罪である」と伝えて、過失犯と確信犯を区別できたとしましょう。
これで「考えたか」「犯罪であると知っていたか」は確信犯の要件ではない、ということには納得できましたか?
No.332) 悪いと知ることはキーポイントである iwatam(Sun Feb 8 21:01:26 2004)
では、確信犯とはそれが犯罪であると知ることによって初めて生まれる概念であるということはよろしいですね。
つまり確信犯とは「悪いと知っていてもやる犯罪」です。過去に知らないままやった犯罪は、その時点では確信犯ではありません。その人が犯罪であることを知ったときに初めて確信犯になります。
確信犯を個々の事象ではなくある行動パターンに対して言うとすると、知ることは確信犯を判定するための条件です。
つまり、確信犯というのは何月何日に起きた爆弾テロのことを言うのではなく、「爆弾テロ」という概念について言うことです。爆弾テロが確信犯かどうかを言うにはそれが犯罪であることを知っていなければなりません。そして、爆弾テロが確信犯であるということになれば、その人が行った過去の爆弾テロも確信犯だったということになります。
そういう意味では、個々の犯罪が確信犯であるかどうかを言うのに「その時に犯罪であると知っていた」というのは要件ではありません。それはその通りだと思います。
No.334) はるゆき(Sun Feb 8 22:28:06 2004)
確信犯とはそれが犯罪であると知ることによって初めて生まれる概念である…には同意できません。
「何故殺したのですか?」
「理想国家実現のためです」
「理想国家実現のためになら人を殺してもいいのですか?」
「何故そんなことを聞くのですか?理想国家実現の妨げになる輩は殺すのが正しいのです」
この人物は確信犯の要件を満たしていると考えますが、「人を殺すのは犯罪」ということは本人には伝えていませんし、犯罪だと認識していたかも分かりません。これではダメなのでしょうか?
No.339) あなたの言うとおりです iwatam(Mon Feb 9 22:20:22 2004)
あなたの言うとおり、それは確信犯です。
そして、「理想国家実現のためになら人を殺してもいいのですか?」という質問は、「本当は人は殺してはいけないことじゃないのか?」と問いかけていることでもあります。だからそれは「ある基準で見ればそれは悪いことだ」と言っていることにあたります。
No.341) はるゆき(Mon Feb 9 23:02:53 2004)
では、重ねて質問します。
この人物は「社会的、あるいは法律的には悪いことであるとわかっていながら」人を殺した、と言えるのでしょうか?
No.343) すみません。ひとつ訂正します iwatam(Mon Feb 9 23:50:53 2004)
すみません。ひとつ訂正です。
「社会的、あるいは法律的には云々」という言葉はおそらく私のコラムからとったものでしょうが、「社会的、法律的など」と「など」を入れてください。ここでは犯罪の話をしているので関係するのは社会や法律がほとんどですからこう書きましたが、実際にはそれに限った話ではありません。
キーポイントは社会とか法律といったジャンルではなく、「悪いことであるとわかっている」ことです。
No.345) はるゆき(Tue Feb 10 23:25:40 2004)
了解です。「など」を加えても質問の意図は変わりません。
せっかくなので補足すると、「人を殺してもいいのですか?」と聞かれた人物が、質問者が「人を殺すのは悪い」という立場であると考えるとは限りません。「悪い」可能性があるとは夢にも思っていなければ、「質問者も『いい』と思っているので、確認のために聞いている」と考えるかもしれませんし、「質問者自身がいいか悪いか分かっていないので、自分に聞いた」と考えるかもしれません。仮に「悪い」可能性もあるのではないか、と気付いたとしても、質問者は「いいか悪いかどっち?」と聞いているだけなのですから、質問者にとっての正解がどちらなのかを知ることはできません。
No.346) ポイントは可能性を知ること iwatam(Wed Feb 11 01:42:23 2004)
質問者が「人を殺してもいいのですか?」と聞くということは、少なくとも(必ずしも質問者ではなくても)どこかに「人を殺すのはよくない」という立場が存在する、と言っています。ですから、この質問の意味を理解してその上で答えるのならば、「人を殺すのはよくないという立場もある」と知った上でのことであるはずです。
そもそも、質問者も悪い可能性があると思ってなければ、そんなことを聞くことはないでしょう。悪い可能性があると思っているからこそ聞くのです。答えるほうも、悪い可能性があるかもしれないからこそ「いや、私は正しい」と答えるのです。もし悪い可能性がこれっぽちもなかったら「あなたの質問の意味がさっぱりわかりません」と答えるでしょう。そしてそれは質問に答えたことにはなりません。
「悪いとわかっている」とは「悪いという可能性があることをわかっている」ということです。
No.348) はるゆき(Wed Feb 11 12:24:03 2004)
その理屈でいくと「これはペンですか?」と聞かれて「はい、ペンです」と答えた人は、必ず「ペンではない可能性」を認識していることになります。
上で書いたことの繰り返しになりますが、回答者はペンであることを「知っている」が、質問者がこの棒状の物体がペンなのか、鉛筆なのか、それとも体温計なのか分からないから聞いているということもあるのです。この場合「ペンではない可能性」を認識しているのはあくまで質問者であり、答える側からすれば「絶対にペンで間違いない」のです。
No.349) その通りです iwatam(Wed Feb 11 17:14:18 2004)
「はい、ペンです」と答えた人は、必ず「質問者がもしかしたらペンではないと思っているかもしれない可能性」を認識していることになります。
そういう意味で、あなたのおっしゃるとおりだと思います。
No.350) はるゆき(Wed Feb 11 17:39:47 2004)
「質問者がもしかしたらペンではないと思っているかもしれない可能性」と「ペンではない可能性」は同じではありません。
No.352) 善悪は主観 iwatam(Wed Feb 11 19:48:00 2004)
ペンは客観的な存在ですが、善悪は主観的な存在です。ペンは人間がいなくても存在しますが、善悪はだれかが思っていない限り存在しません。そして、絶対的な善悪というのも存在しません。善悪はあくまで個人が決めるものです。
これは「ラーメンはおいしいですか?」という質問と同類のものです。だれかがラーメンはおいしいと思っている可能性は議論できますが、「ラーメンがおいしい可能性」というのは議論できません。「誰にとって」を考えずにおいしいかどうかを議論することはできないのです。
No.353) はるゆき(Wed Feb 11 20:13:50 2004)
今の日本で「殺人は悪」とされているのは客観的なことではないですか?

それにNo348の例は「これはペンですか?」を「人を殺してもいいですか?」に入れ替えても内容は変わりません。

No.359) いいえ iwatam(Thu Feb 12 01:22:19 2004)
客観的なことではありません。「殺人は法律違反」なら客観的なことですが。
一般的なことならいえます。しかし、それは客観的な真実ではありません。
「吉野家の牛丼はうまい」のような文と同じです。一般的にそう言えますが、それは客観的な事実ではないし、「いや、吉野家の牛丼はまずい」という人がいてもおかしくはありません。
No.363) はるゆき(Sat Feb 14 13:23:22 2004)
それでは、「現代日本では殺人は悪」のようなことは「一般的に悪いとされていること」と呼ぶことにします(=確信犯と判定する側が悪いとしていること)。

ひとつ確認しますが、コラムの「社会的、あるいは法律的には悪いこと」というのは、「一般的に悪いとされていること」ということでいいでしょうか? それに「など」を加えて訂正するとのことでしたが、それは「一般的に悪いとされていること」に「個人的な主観で悪いと思っていること」を含めるということでしょうか。

No.370) 「悪い」とは誰が決めるか iwatam(Wed Feb 18 08:45:18 2004)
「悪いこと」というのは、「犯罪」という言葉に対応します。つまり、「それは犯罪だ」と言った人が悪いとしていることです。
そういう意味では、「確信犯と判定する側が悪いとしていること」という解釈でよいと思います。しかし、それが「一般的」かどうかはまた別の問題です。
No.355) はるゆき(Wed Feb 11 20:29:03 2004)
「質問者がもしかしたら『人を殺すのは悪い』と思っているかもしれない可能性」と「『人を殺すのは悪い』可能性」は同じですか?
善悪が主観なのは同意しますが、それならば他人が「悪い」と考えている可能性を認識していても、自分にとって「悪い」可能性がないのなら両者はまったく別物であると思いますが。
No.362) 同じことです iwatam(Thu Feb 12 01:26:48 2004)
「人を殺すのは悪い可能性」とは「人を殺すのは悪いという考え方がどこかに存在しうること」と定義すれば、質問者が思っているかもしれない可能性と同じになります。
自分の中になくても、他人の考えの中にあればそれはどこかに存在していることになるからです。
No.351) はるゆき(Wed Feb 11 19:12:31 2004)
そもそも、100%間違いないことを質問することは、論理的に不可能なのでしょうか?
「質問の意図」と「質問の意味」を混同してはいけません。意図が分からなくても意味を理解することは出来ます。
No.356) 答えの可能性 iwatam(Wed Feb 11 20:38:58 2004)
おそらく「答えの可能性」の意味がうまく伝わらなかったものと思います。
「これはペンですか?」という質問に対して、答えは「イエス」か「ノー」かです。これを「答えの可能性」と呼びました。どちらかが正解でどちらかが不正解ですが、答えの可能性は二通りあります。
つまり、どちらかが「正しい」と言うには、その反対のことが「間違っている」と言えなくてはなりません。
例えば「人を殺すのは正しい」と言うためには、「人を殺さないのは間違い」と言わなくてはなりません。そして、そのためには「人を殺さない」という考え方もあるということを知らなければなりません。
No.357) はるゆき(Wed Feb 11 21:03:20 2004)
No334の例をもう一度読んでもらいたいのですが、この人物は「人を殺していいのか」という問いに対し、「何故そんなことを聞くのか」と返しています。すなわち、質問者の意図を理解していないのです。しかし「殺すのは正しい」と答えることは出来ます。

「人を殺さない」という考え方があると知っていたとしても、「人を殺さないことが正しい」という考え方があると知っているとは限りません。「人を殺さないことが正しい」という考え方があることを知らなければ、「人を殺すことが悪い可能性」を認識することは出来ません。

No.360) 「正しい」の定義と思想の特殊性 iwatam(Thu Feb 12 01:14:37 2004)
「これはペンである」と違って、「これは善/悪である」というのは特殊です。客観的な事実は勝手に作れないのに対して、主観的なことがらはいくらでも自由につくることができるからです。
「人を殺さないことが正しい」という考え方はあります。すべての考え方はそう考えさえすれば存在するのです。それを正しいと思うか間違っていると思うかはまた別の話です。
結局、ふと可能性を考えるだけでどんな考え方でも「存在」になります。「人を殺すことは正しい?間違い?」と考えた時点で、「人を殺すことが正しい」という考え方も「人を殺すことは正しくない」という考え方も「存在」になります。そのうちどちらかを正解にし、どちらを不正解にするかはまた別の話です。
No.364) はるゆき(Sat Feb 14 16:55:32 2004)
何かを「ペン」と呼ぶことは、そもそも誰かが自由につくりだした約束事ではないのでしょうか。それを多くの人が守っているというだけの話だと思うのですが。

「存在」が「客体」であって、それに対してどう思うかが「主観」になります。その意味で「これはペンである」を正しいと思うか間違いと思うか、「殺人は悪である」を正しいと思うか間違いと思うかはまったく同じです。

No.365) そこまで問題にするならその通りです iwatam(Sat Feb 14 18:37:21 2004)
つまり、「ペン」という言葉の意味が人によって違っているかもしれない、ということですね。
そこまで考えるのなら、「これはペンですか?」という質問も「殺人は悪ですか?」という質問も同じです。
この場合、「あなたにとって「ペン」という言葉は何を意味していますか?」という質問と同義になります。「これ」への質問ではなく「ペン」という言葉の定義への質問になるわけです。
No.358) はるゆき(Wed Feb 11 22:27:57 2004)
明日火星人が攻めてくる可能性はあるでしょうか? 私は絶対にないと思いますが、可能性を想定することは出来ます。
「人を殺すことが悪い可能性」も同様。想定することと、「可能性がある」と考えることはまったく違います。
No.361) 可能性という言葉は不適切でした iwatam(Thu Feb 12 01:18:41 2004)
「可能性」という言葉は不適切でした。
私は可能性を「可能性を想定することができる」という意味で使いました。
No.366) はるゆき(Mon Feb 16 21:07:02 2004)
確信犯の絶対要件は「自分のした行為を正しいと思っていること」であり、これは本人に聞いてみないと分からない。で、「あなたのした行為は正しいですか?」と聞いてみたところ「はい、正しいです」と返事があった。これは確信犯である…。ここまではOKですね?(No339より)

「これはペンですか?」と聞かれて「私は幻を見ているかも知れないから、ペンではない可能性も考えられる」など「ペンではない可能性」を想定することも出来るにもかかわらず、あたりまえだと思っていることに関しては普通はそんなことは考えない。ということは、「正しいですか?」と聞かれても、それを当然のことと思っていれば「正しくない(=悪い)可能性」を必ず想定するとは限らない。よって「悪いと分かっているかどうか」は確信犯の要件ではない。ということが、まず考えられます。

それでも、「正しいですか?」と聞いたなら必ず「悪いと分かっている」ということになるのだ、という主張をされるのであれば…。それが論理的に必ず導き出されることであれば、わざわざそれを断る必要はない。よって、「悪いと分かっている」という文言が省略されているから文化庁の定義は間違い、という主張と矛盾することになる、ということを指摘しておきます。

No.368) 質問a理解しないと答えられない iwatam(Tue Feb 17 04:02:20 2004)
何を質問されているのかを理解しないと答えることはできません。あるいは答えたうちに入りません。
「なんでそんなことを聞くの?」という質問は上では「意図」の質問だという話でした。それはその通りです。そして、相手の質問の意図を理解しない限り、質問を理解したうちには入りません。
「これはペンです。なんでそんなことを聞くの?」という答えは、答えがまだ確信にまでは至っていません。相手がした質問が本当はなんだったのかがわかっていないからです。
No.369) ひとつ主張を間違えないでいただきたいのは iwatam(Tue Feb 17 04:08:29 2004)
間違えていただきたくないのですが、私は「文化庁の定義は間違い」とは主張していません。
問題の作り方がよくないと言っているだけです。
No.329) はるゆき(Sun Feb 8 19:12:21 2004)
No.314の「過失犯」を「錯誤犯」に訂正します。「錯誤犯」は勘違いにより自分の行為を正しいと思っている人のことです。
「過失犯」は故意の無い犯行に使うことにします。例えば、ハンドルを切りそこなって誤って人を轢いてしまったら「過失犯」、わざわざ人を轢くつもりで突っ込んで行ったのなら「故意犯」です。
上記例の「故意犯」のうち「信念に基づきその人を轢き殺すことを正しいと信じている」場合を「確信犯」とします。
No.328) sho(Sun Feb 8 17:50:45 2004)
はじめまして、コラム読ませていただきました。
確信犯についてのコラムを読んで思ったことを述べさせていただきます。
これは、文化庁の設問文の言葉が足らなかったのではないかと思います。

>間違い: 悪いことであるとわかっていながらなされる犯罪
「法律(社会で一般的な道徳)で悪であると知っている」かつ「犯罪者の倫理においても悪である」
しかし、やりたかった(楽しむ為など自分にはメリットが存在する)ので行った。
つまり、愉快犯のことを指している。という意図だったのではないかと思います。
設問文の場合、悪いと言う表記が単に法律のことであるのか、犯罪者の倫理も含んでいるのかがわからないのではないでしょうか?
法律でのみのことを指している場合、コラムで書いてあったように犯罪者が善だと思っている場合があると思い、この場合両方同じような意味にとれると思われます。

>正解: 政治的・宗教的などの信念に基づいて正しいと信じてなされる犯罪
「法律(社会で一般的な道徳)で悪であると知っている」かつ「犯罪者の倫理においては善である」
そして、その行為は善であるので行った。
これが確信犯である。

*善とは世界においてメリットである。悪とは世界においてデメリットである。という意味で使用しています。

No.331) ご意見ありがとうございます iwatam(Mon Feb 9 00:24:28 2004)
「文化庁の設問文の言葉が足らなかった」というのはその通りだと思います。
ところでひとつ質問します。愉快犯は確信犯ではないのでしょうか?
「人間はやりたいことをやるべきだ」というのはひとつの倫理ではないでしょうか?
「倫理あるいは信念とは自分の行動の理由付けである」と定義すると、すべての行動は自分の倫理/信念に基づいたものになります。自分の倫理で悪とされる行動は実行されません。
だから、「悪い」という言葉に犯罪者の倫理が含まれていることはあり得ないので、「悪い」とは単に法律のことであるととるのが妥当です。
以上のことは、私が私なりに「信念(あるいは倫理)」という言葉を定義したことによる結論です。ですから、「いや、それはそもそも信念という言葉の定義から間違っている」というならば、信念とは何かを教えていただきたいのです。
まとめますと、「善とは自分におけるメリットであり、こう定義すると人間は自分における悪を成すことはない」といえます。あなたの定義の「世界」が「自分」に置き換わっていますが、「世界におけるメリットとは何だろう」と考えると結局は自分におけるメリットになるというのが私の意見です。
これについては「利己主義」のコラムで書きましたので、もしお時間がありましたらそちらをご参照いただきたいと思います。
No.333) sho(Sun Feb 8 22:22:31 2004)
レスありがとうございます。
「利己主義のすすめ」読ませていただきました。
このコラムで言われていることは、私も常々考えていることとほぼ一致し、共感致しました。
全ては自分の利益のためにしか行動できないということですよね。
上記意見において、世界においてメリットであるというのは「功利主義」同じニュアンスかと思います。
つまり、逆にいうと悪というのは世界に対してもデメリットであるということになります。
これだけだとこの行動は実行されることはないと思いますが、ここで自分にメリット(楽しむなど)がある場合はどうでしょうか?
差し引きプラスになるのであれば実行されるのではないでしょうか。
「利己主義」であり、他のデメリットを顧みない場合はこの悪になるのではないでしょうか。
善と悪の定義というのは難しいですね……。
>「世界におけるメリットとは何だろう」と考えると結局は自分におけるメリットになるというのが私の意見です。
確かに功利主義も突き詰めるとやはり利己主義になります。
しかし、上で書いている悪もやはり利己主義になると思われます。
愉快犯は確信犯ではないか?という意見については
・法では悪とされていることを知りながら信念において犯罪を犯す=確信犯である。
・全ての人間の根本的な行動理念である利己主義(自分のやりたいようにやる)=信念である。
と、このように定義するのであれば愉快犯も確信犯に含まれると思われます。
また、この定義ならば法を知っていて行われる全ての犯罪は確信犯であるといえるでしょう。
ただ、ここでいう利己主義とはあまりに根本的過ぎて本能ともいえます。
これは、信じる信じない以前の問題ではないでしょうか?
それとも、全てにおいて共通の信念ということになるのでしょうか。
信念という定義にこの利己主義が含まれるのかどうかで、愉快犯が含まれるか否かがわかれますね……。
もう少し信念の定義について調べて見ようと思います。
No.336) 本能と信念 iwatam(Mon Feb 9 20:10:47 2004)
本能には善悪の概念が含まれていないという点で信念とは違うものです。「○○したい」が本能で、「○○すべきだ」が信念です。
もっとも根本となる信念は「本能のおもむくままに行動すべきだ」というものです。この是非はともかく、これは本能そのものではありません。
No.337) sho(Mon Feb 9 21:45:25 2004)
・善とは(自分含みその他に)メリットである。悪とはデメリットである
・本能において自分にメリットであること(やりたいと思うこと)しか行動できない
と定義した場合。
「○○すべきである」というのは、善である、つまり自分にメリットが存在するからこそおこりうる考えです。
とすると、「○○したい」と同じことになりませんか?
そのものであるとは言えないかもしれませんが、つきつめると同じことを言っているのではないでしょうか。

というのは置いといてですが。
>利己主義とはあまりに根本的過ぎて本能ともいえます。
と書きましたが、利己主義とは本能であるという言い方はおかしかったですね。
「利己主義とは行動の大前提であるといえる」に訂正致します。
したい、したくない以前に自分の為でないとできないのですから本能では意味がおかしかったですね。
申し訳ございません。
ところで、質問ですが善悪とはそちらはどのように定義されていらっしゃるのでしょうか?
●こちらの確信犯について見解のまとめ
利己主義とは信念である場合:愉快犯は確信犯に含まれる。設問文二つは同じことを指す。
利己主義とは信念でない場合:愉快犯は確信犯とは別物である。設問文二つは別物。

No.342) 本能とは iwatam(Mon Feb 9 23:16:15 2004)
本能とは「○○したい」であるというのは簡略化しすぎでした。すみません。
もう少し厳密に言いますと、本能とは「人間が生まれつき持っている生物としての欲求や行動」です。本能には理由も思考もなく、人間であるならば強制的に湧き上がってくるものです。ですから、「考える」という過程が入ったものは本能ではありません。
しかし、おっしゃるように「本能のままに行動するべきだ」と考えて行動するのと、何も考えずに本能のままに行動するのでは外からは違いがわかりません。ですから本文中でも「何も考えてない犯罪というのはもともと議論の範囲外ですよね?」と書きました。疑問形なのはこれが結論ではなく仮定だからです。これを受け入れていただけるのであれば、「この議論では本能は対象外である」と言うことができます。
No.338) 善悪とは何か iwatam(Mon Feb 9 22:48:50 2004)
私の主張はご理解いただけたようでうれしく思います。
ところで、利己主義では、善とは「その行為で生ずるすべての自分へのメリットからすべてのデメリットを差し引いた結果がプラスである」という定義です。悪とは逆にマイナスであるという定義です。
ですから、差し引きプラスであれば実行され、それは「善」であるということになります。世界に対してデメリットがあっても、自分のメリットの方が上回ればそれは自分にとっての「善」です。
世界に対するメリット/デメリットを考える考え方には一つ問題点があります。それは、結局のところそれは計算できないということです。例えば自分が腹いっぱい食べるという行為そのものがアフリカの子供たちに渡る食料を減らしていることになっているかもしれません。そのデメリットをどのくらいだと計算すればいいのでしょうか。結局、確実に計算できるのは自分にとっての利害だけです。
これは考え方(信念/倫理)の問題ではなく、入力(情報)の問題です。悪を行ってしまうのは考え方が悪いのではなく、その行為が悪だと結論付けるに足る情報が与えられなかった(あるいは思いつかなかった)からです。これを例のコラムでは「バカな利己主義」と呼びました。利己主義が悪いのではなく、バカだから悪いのです。
結局、善悪というのは結果であって、信念というのは考え方です。あるいは言い換えれば信念とは「善悪の基準」ともいえるでしょう。だから信念そのものについて善か悪かは言えません。そもそも善悪の定義のないところにあるからです。
「善悪とは何か」という問いの答えを同語反復的に言えば、善悪とは「信念によって定義されるもの」と言えるでしょう。
あるいは善とは「するべきであること」であるともいえます。いくつかの行動の選択肢があったときに、どれを選ぶかの順位付けです。
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