iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

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No.458) もう一つ 焼鳥(Wed Sep 15 14:52:32 2004)
> ある論理体系が首尾一貫していてどこにも矛盾がないのならば、その論理体系だけでは正しいとも間違っているともいえない問題が存在する。

> これはゲーデルによって論理学的に証明された「定理」であり、もはや議論の余地なく正しい事柄です。これに対して「いや、俺はそうは思わない」というのであれば、世の中にたくさんあるゲーデルの不完全性定理の解説書をお読み下さい。これがどうにも納得できないという人は、こう言い換えるとわかりやすいでしょうか。
> 論理体系、言い換えれば「考え方」をどう規定しようと、正しいとしても間違っているとしても矛盾が出る問題(パラドックス)を作り出すことができる。そしてその逆として、正しいとしても間違っているとしても矛盾の出ない問題(トートロジー)も作り出すことができる。

> この定理が証明される前までは、パラドックスが出てくるとしたらそれは考え方がおかしいのだと思われていました。

第一不完全性定理で言っていることは
「ある条件を満たすを体系Tとして、集合{A|TからAが導かれる}∪{A|Tから¬Aが導かれる} の補集合が空集合とはならない」ということですよね。つまり空集合にならないことを指して不完全だといっているわけです。
さらに第二不完全性定理「体系が無矛盾のとき、“体系は無矛盾”という論理式もその否定も導けない」では、“体系が無矛盾”およびその否定が補集合の中に入ってしまう。やはり不完全である。

ところで、iwatamさんの文章では“論理体系、言い換えれば「考え方」をどう規定しようと、正しいとしても間違っているとしても矛盾が出る問題(パラドックス)を作り出すことができる。そしてその逆として、正しいとしても間違っているとしても矛盾の出ない問題(トートロジー)も作り出すことができる”を第一不完全性定理の言いかえとして述べているわけですが、「作り出す」という表現は微妙で、単にsyntax的に構成するという意味ならば、不完全性とは何一つ関係ありません。よって言い換えになってはいない。では定理として出てくると考えたらどうか。不完全性定理の方では定理として出てこない論理式が在ることを主張しているわけで、やはり言い換えになっていない。

また、“この定理が証明される前までは、パラドックスが出てくるとしたらそれは考え方がおかしいのだと思われていました”と書いておられますが、この書き方だとまるで不完全性が原因となって矛盾が出てくるように思われます。しかし矛盾している体系が不完全であることはありえません。なぜならある論理式とその否定が同時に定理として成り立つ性質(=矛盾性)を持つならば、任意の論理式が定理となることが証明できるからです。つまりこれは、上で述べた集合の補集合が空集合になることを言っています。この証明は容易だし、この結果は有名でもあるのであえて証明法には触れませんが。
ここの話は第一不完全性定理についてのものでしたが、第二不完全性定理を考えても、これは無矛盾な体系では矛盾もその否定も導くことができないと言っているだけで、矛盾が出たらそれは単なる矛盾した体系です。不完全性とは関係ない。

No.462) 矛盾とパラドックス iwatam(Wed Sep 15 23:08:55 2004)
これは、矛盾した文とパラドックスの違いではないでしょうか。文Aが矛盾するとはTからAも¬Aも導けることをさし、文AがパラドックスであるとはTからAも¬Aも導けないことをさします。そして、不完全性定理で言っていることはパラドックスが存在するということです。
例えば(エピメニデスが言った)「クレタ人はうそつきだ」という文は、真だと仮定すると矛盾が起きるから真ではなく、偽だと仮定しても矛盾が起きるから偽でもなく、結局どちらも導けない文です。
矛盾した文とは例えば「エピメニデスはクレタ人であるが人間ではない」という文で、これは矛盾しているが故に偽であることがはっきりする文です。
「パラドックスである」と書いたところを「矛盾である」と書いてあるように読んでいらっしゃるのかと思いましたが、いかがでしょうか。
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という話がもし的外れだったらごめんなさい。こんなバカを相手にする気が失せたなら放置で結構です。
No.464) 焼鳥(Thu Sep 16 02:28:23 2004)
実は最初に件の文章を読んだとき、何を書いているのかよくわからなかった。で、“逆としてトートロジー”と書いてあったので、充足不可能文のことだと解釈したわけです。

で、なぜ何を書いているのか分からなかったかというと、パラドックス文がいわゆるゲーデル文のことであるならば、それは確かに導けない文ですが、
導けない文がすべてゲーデル文であるという証明は見たことも聞いたこともないため(というか、第二不完全性定理の導けない論理式の存在が反例になってますよね)、文Aがゲーデル文(パラドックス)であるとはTからAも¬Aも導けないことをさすという理解のもと書かれた上記の言明を理解できなかったといったところでしょうか。
ちなみに、ゲーデル文を少なくとも明示的には用いていない証明法もあり(もしかしたら深いところで用いているのかもしれないが、わからない)、私がこちらの証明法に親しんでいたという極めて個人的な理由も分からなかった原因かもしれない。

また、手元のどの教科書(すべてが数理論理学の教科書ではなく、帰納的関数の教科書も混じってますが)を見ても、完成された定理の形はゲーデル文については直接言及していません。
つまり集合論的な記法に訳すと「集合{A|TからAが導かれる}∪{A|Tから¬Aが導かれる} の補集合が空集合とはならない」と書いてあります。

つまり「不完全性定理で言っていることはパラドックスが存在するということ」というのは言いすぎなわけです。確かに不完全性定理のゲーデルによる証明の構成法を考えれば、ゲーデル文というパラドックス文が存在することは事実ですが、多大な誤解を招きかねない。ゲーデル文(パラドックス)だけが導けない論理式と考えてしまうと、第二不完全性定理が間違えていることになってしまう。
正しくは「不完全性定理のいっていることはTから証明も反証もできない論理式がある」であり、かつ「そのなかの一つとしてゲーデル文というパラドックス文がある」とすべきでしょう。

ところで私は、不完全性定理についての議論の中で、パラドックス文と言う言葉を使うことに強い抵抗を感じます。
ゲーデル文という言葉を使いたい。

No.466) おっしゃることはわかりますが iwatam(Thu Sep 16 23:06:35 2004)
引っかかっていらっしゃるところは、おそらく「パラドックス=ゲーデル文」とされているところだと思います。実際は、ゲーデル文(例えば「私は証明できない」)とパラドックス(「私は間違い」)は違うということでしょうか。こういうことでしたらよくわかりました。
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ゲーデル文という単語を書かなかったのも、できるだけ専門用語を排して一般的な用語のみを使うようにしたからです。そもそもここでのトピックは不完全性定理ではなく相対主義であり、ただでさえ難解なこの理論にあまり突っ込みたくなかったという事情もあります。
多少の不正確さは仕方がないとは思っていますが、もし問題が上に書いたようなことなら、これは多少という程度ではすまないと思いますので、何かいい表現を考えようと思います。(といっても私の解釈が正しければですが)
ご指摘ありがとうございました。
No.465) 一応補足 焼鳥(Thu Sep 16 22:46:54 2004)
第二不完全性定理にて証明も反証もできないことが示された文“体系Tは無矛盾”は、いわゆるパラドックスではありませんが、パラドックスをある意味弱めたものである自己言及文ではあります。
ここで気になってくるのは、さらにこれを弱めることができるのかということです。すなわち証明も反証もできない文で、自己言及文でないものは存在するのか。
で、少々調べてみたのですが、
http://members.at.infoseek.co.jp/nbz/ref/hprogram.html
の「§4.最近の話題から」を読むには、そのようなものが存在することが示されているらしい。
残念ながら、そこに書かれていることを詳しく検証する能力は私にはないのですが、一応上の投稿の補足として書いておきます。
No.445) コラムの感想をいくらか 焼鳥(Sun Sep 12 19:44:33 2004)
パズルと解の一意性のコラムの冒頭部分:

> 公務員試験でよく「暗号問題」というのが出されるらしい。例えばこういうやつだ。
> 「いまかえる」が「0160100382」に変換されたとしたら「あいしてる」はどう変換されるか?
> 筆者にはなぜこうした問題が毎年平然と出されるのか不思議でならない。

公務員が必ずしも解の一意性が保証されている中で仕事をするわけではないという事実を考えれば、
このような問題を出すことも妥当だと考えられます。

解の一意性の問題を徹底的に突き詰めたら、それはいずれクリプキのプラスとクワスの論法へと突き当たります。
十分厳密に構築されていると思われている数学の世界での議論についてすら、そうなります。
しかし数学者はそのようなことは気にも留めずに、今日も数学を行えている。

これはなぜか。

それはすべての議論には論理的側面の他に、社会装置的側面があるからです。
ここで社会装置的側面とは、明確な根拠なくある種の社会的雰囲気によって「まあ、こんなものだろう」という風に結論を決めさせてしまう側面を意味します。

iwatamさんの論の主張は、どうも議論の社会装置的側面を軽視しているように思われる。
しかし実際の議論の場にて論理的側面のみを重視してしまうと、プラス・クワス的な方向に行ってしまい面白くない。

注:上でiwatamさんの論の“主張”とわざわざ書いたのは、iwatamさんは実際に論を組み立てる実践的場面では社会装置的側面を用いているからである。

議論のしかたのなかの10.1の囲み:

> 北朝鮮はテロ国家である。日本人拉致問題など数々の問題を起こし、条約を破棄して核開発を進めている。過去に言った事は何一つ守らない。
> こんな国家は放っておくとのさばるだけだ。このような国は先制攻撃で叩き潰すべきだ。

このように文章のごく一部を切り出すことは、文脈を無視する危険性があり良くないことは承知しているのですが、
話のたたき台とするために、あえてこのような形で引用いたしました。

本題。

この文章が論理的であるとするためには、この議論が「このような国は先制攻撃で叩き潰すべき」ということそれ自体を公理とした上でなされているとするか、
あるいは他の公理系から推論規則によってこの言明が導き出されたとするしかありません。

前者の場合、この言明が真であることは明確ですから、今後この議論はそれを導き出した論理体系が良いか悪いかという方向へ移っていくしかないでしょう。
しかしこの方向は、結局無限退行に陥っていきます。

では後者の方ですが、他の公理系から言明が導かれたとするには、まずその公理系を特定しないとなりません。
で、公理系を特定していく道程において、それが前者の場合のようなものであることもあるでしょう。そしてそれは無限後退へと陥る。
しかし多くの場合、この公理系に当たるものは個々人の感情であると思われます。

このようなとき、さらにどのような議論の発展のさせ方がありえるか。

例えば前者の場合よろしく視点をメタに移して「お前の感情は正しくない」と言ってみても、言われた本人にとっては自身の感情は絶対的(変化しないという意味ではない)なので、どうしようもない展開なってしまいます。

ではどうするか。結局それ以上議論を進めるためには、依拠する公理系を変えようとすること、すなわち感情を揺さぶるしかないのではないか。

そうして感情としての公理系(例えば上記の北朝鮮についての議論ならば“ミサイル打ち込まれて自分が死んだら嫌だ”など)をある程度互いに揃えた上でなければ、
実際のところ有効な議論などしえないのではないか。

ここでの私の主張はすなわちこうです。

逆説めくが、感情を無視しては論理的な議論は始められない。

以上長文失礼しました。

No.446) ちょっと補足 焼鳥(Mon Sep 13 01:58:40 2004)
↑は前半後半に分かれていて、

議論のしかたのなかの10.1の囲み:

の部分から後半になっており、内容的に前半と連続してはいないです。
一応空白の行を入れて通常モードで投稿したのですが、改行が削られすぎてしまったようです。
No.449) 感情論について iwatam(Mon Sep 13 22:23:31 2004)
まず率直に反省点を一つ。「感情論でない意見」について、私は「どうみてもそりゃ暴論だろ」という意見を例に書いて、自分がそれを正しいと思っているとは到底思われないようにしたつもりだったのですが、昨今の風潮ではそうは思ってもらえないようで、どうしたものかと思っています。これはあくまで例であり、私がこう主張しているわけではありません。

私が「感情論だ」と言ったのは、個々の言明についてではなく、言明同士のつながりについてです。前の言明と後ろの言明がつながっているかどうかです。個々の言明がどうか(そしてその真偽)というのは問題にはしていません。
 「このような国は先制攻撃で叩き潰すべき」という言明が問題になるということは、議論が進展しているということであり、感情論でない証です。「感情論だ」と書いた方の意見はその中のどの言明も他とはつながっていないので、どれかを否定しても全体が否定されたことにはなりません。だから批判する側もどこを問題にしていいかわかりません。反論ができるからこそ感情論ではないのです。
 「無限退行に陥る」と書かれていますが、その通りです。しかし、無限退行に陥るのは悪いことではありません。死ぬまで無限に議論を繰り返していけばいいのです。逆に、議論が途中で止まってしまうということは、それがもともと簡単な問題であったか、あるいは既に議論にならなくなっているかのどちらかであるということを意味します。

No.451) そうではなくて 焼鳥(Mon Sep 13 23:36:08 2004)
言明同士のつながりについての話であることは重々承知しております。
その上で意見を述べております。
つまり、北朝鮮が“このような国”であるとしたとき
結論“先制攻撃で叩き潰すべき”が導き出されるには、
“このような国ならば先制攻撃で叩き潰すべき”が定理として存在している必要があるわけで、
この定理の出所は何なのかというところを問うたわけです。
もう少し分かりやすく書くと、論理学では
定理“A”と定理“A→B”に対してmodus ponensが適用されたとき、はじめて定理“B”が示されますが、
この“A→B”が定理として導かれ得るためにはどうであればいいのかということを書いたわけです。

> 「無限退行に陥る」と書かれていますが、その通りです。しかし、無限退行に陥るのは悪いことではありません。死ぬまで無限に議論を繰り返していけばいいのです。

実際の議論の場でもメタな方向へメタな方向へと議論を進めていく人をたまに見受けますが、
大抵はほどほどのところで止めないとくだらなくなってしまう。

> 逆に、議論が途中で止まってしまうということは、それがもともと簡単な問題であったか、あるいは既に議論にならなくなっているかのどちらかであるということを意味します。

これはレトリックとして受け取っておきます。まともに受け取るには飛躍がキツ過ぎ。

最後に一応私の立場の表明。
議論というのはそれが人間によってなされている以上は物理現象であり社会現象です。
ゆえに、議論とはその地平に立って理解しなければならない。
これはすなわち、議論とはある種の装置として考える立場になります。

No.454) iwatam(Tue Sep 14 22:25:49 2004)
すべての言明にすべての定理がかかれているわけではありません。人間の出した意見なのですから、どこかに省略があるのは当然のことで、それを探っていくのが議論です。だから、「この定理の出所は?」という質問には「問題となっている例には存在しない」というのが答えです。
そして、もしこれが本当の議論なら、そう主張した人に質問すれば何らかの答えが返ってくるでしょう。しかし、それを私に求められても困ります。私は単なる例として出しただけなのですから。私はここでは「言明同士のつながりの話である」ということを言いたいだけなので、それがわかっていただけたのであればこの「例」の役目はそれで終わりです。
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「メタな方向はくだらない」という考え方をするのは自由ですが、そもそもくだらないかどうかというのは個人の価値観であり、そう思わない人も存在します。そう思わない人同士でやる分にはかまわないでしょう。もちろん、くだらないと思ったらその場でやめればいいのです。
「議論のしかた」もメタな方向に進んでいるわけですが、それが本当にくだらないかというと(まあ、くだらないのかもしれませんけれど)少しは得るものがあります。
本文でも書きましたけれど、メタな議論というのは正しくやれば問題の理解に役に立ちます。ただ、正しくやるのはなかなか難しく、たいていはもともとの目的を忘れて変な方向に行ってしまうのですが。
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「まともに受け取るには飛躍がキツ過ぎ」というのはどのあたりでしょうか?私にはわかりませんでした。
「議論とはある種の装置」とおっしゃっていますが、何の装置でしょうか?(という質問あたりに意見の違いが出るのではないかと思いました。)
私は議論に結論は必要ないという立場です。各自が面白いと思うだけやって、くだらないと思い始めたらやめればいい。それだけだということです。まあ、悪く言えば概念の遊びです。
No.456) う〜ん 焼鳥(Tue Sep 14 23:43:27 2004)
論理の飛躍も多過ぎますがそうですが、ちょっと誤読が多すぎるかなといった感じです。ちょっと話が成り立つための許容範囲を超える。
少なくとも一文一文を丁寧に読んだ人の返信ではないな。この返信をするにあたって、きちんと最初の記事(No.445)も参照されたのでしょうか。

以上の理由で私はこの件からおります。本当はこの返信も書くか迷ったのですが。以上のようなことを書くこと自体、ルール違反を犯しているかもしれない。だから以上の部分については削除しておいてもらってもかまいません。

ちなみに、

> 「議論とはある種の装置」とおっしゃっていますが、何の装置でしょうか?

についてですが、これは単に“世界のなかに在って他の社会現象と相互作用するもの”といった意味で装置という言葉を使っただけです。
つまり、議論は社会とか人間とかの性質と切り離して論じることは本来はできないもので、とは言え、議論を語ろうと思えば便宜的にある程度切り離して語らざるを得ない、その場合は必ず細心の注意を払うことが要求されるということを言いたかっただけです。

この部分に関しては完全に説明不足でした。申し訳ありません。

最初は“道具”と書こうとしたのですが、そうすると“何の道具?”ってことになるだろうと思って“装置”にしたのですが、結局同じことでしたね。
“世界内存在”とでも書けば良いのかとも思いましたが、この言葉はすでに多くの議論の文脈を背負いすぎていますね。

No.457) 訂正 焼鳥(Tue Sep 14 23:49:03 2004)
すみません、一行目訂正です。

「論理の飛躍も多過ぎますがそうですが、ちょっと誤読が多すぎる」→「論理の飛躍も多過ぎますが、ちょっと誤読も多すぎる」

No.461) 残念ですが iwatam(Wed Sep 15 22:39:08 2004)
どこがどう誤読でどこがどう論理の飛躍なのかを教えていただけないのは非常に残念ですが、私も無理を言って教えていただけるような立場にはありませんので、返信をいただけないのは仕方がないと思います。
あなたの文章はすべて参照、吟味した上で返事を出してはおりますが、あなたの書く文章は私の読解能力を超えているため、時折「こいつ全然読んでないんじゃないか?」と思うことがあるかもしれません。これは、読んでないのではなく、読んだけど解ってない(しかも自分が全然解ってないことすらわかっていない)のだと解釈していただきたいと思います。その上で、そんなバカは相手にできないというのならそれはご自由になさってください。
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議論は社会や人間とかの性質を切り離すことはできないというのはその通りで、しかしできるだけ切り離して語ろうとしなくてはいけません(私は「ある程度」ではなく「できるだけ」と言っています)。
議論で細心の注意を払うべきは「簡単には切り離せないものをできるだけ切り離すようにすること」であり、「離れてしまうものをできるだけつなぎとめておくようにすること」ではありません。それはなぜかというと、我々は社会や人間といったものに立脚している以上、そういったものと本来切り離されて存在できないからです。放っておくとくっついてしまうものだから、努力して切り離していかないといけないのです。
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私とあなたには次の対立点があると私は認識しています。
* 議論が無限退行してしまうのはよくない/よい
* 人間には(感情という)公理が存在する/しない
* 議論は何かの役に立つものである/役に立たなくてもよい
* 議論は世界に即していなくてはならない/机上の空論でもよい
私は後者の立場をとっています。それがよいかどうかはともかく、ここが問題点だということはよろしいでしょうか?
(なお、返答を求めてはいませんので、返答しないのも自由です)
No.450) 解の一意性と帰納法 iwatam(Mon Sep 13 23:09:26 2004)
「公務員は屁理屈をひねり出す能力より常識の方が大事なんだから公務員試験にはこういう問題を出してもいいんだ」というのはある意味正しいとは思います。冒頭に書きましたように。ある意味、独創的な人間(=変な奴)を排除するよいフィルターになっているかもしれません。
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 クリプキが例に出されていますが、これは
常識非常識の問題ではありません。帰納法の問題です。サンプル数の少ない現象から無理やり帰納法によって結論を導き出すことの危険性についてです。そのデータにそれ以外の解釈をあてはめることができないかを考えることが必要です。
 要は帰納法の危険性をわかっているかどうかです。わかっているなら、少なくとも問題文にエクスキューズが必要です。解く人にできるだけわかってもらおうと努力して書いたことを明記するということです。「暗号」という言葉は、そうした仮定ができないことを示しています。
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 もう一つの問題は、採点時に答えしか見ず、どんな理由があろうと答えが間違っていればバツになってしまうという問題です。これでは「出題者と同じような考え方をする人以外は不合格だ」と言っているようなものです。
No.452) 焼鳥(Mon Sep 13 23:56:39 2004)
> クリプキが例に出されていますが、これは
常識非常識の問題ではありません。帰納法の問題です。サンプル数の少ない現象から無理やり帰納法によって結論を導き出すことの危険性についてです。
> そのデータにそれ以外の解釈をあてはめることができないかを考えることが必要です。

それが公務員試験の試験中だということまで考慮すれば常識非常識の問題でもあります。
もちろんサンプル数の少ない問題から帰納された結論というのは脆弱ですが、しかし脆弱でもある程度その状況で可能性の高そうな結論を導けることは重要。
自然科学の研究の現場だって、まずは大掴みからはじめて、それが本当に妥当かどうかの検証に移っていくわけですから。

そういうわけで、私は件の出題は“あり”だと考えるわけです。

ただし、確かにもっと検討を要する出題ではありますが。文章で解答者に解答させるのが一番良いのでしょうが、現実的には難しいんでしょうね。

No.455) 穴埋め問題 iwatam(Tue Sep 14 22:55:04 2004)
似た例に、熟語の穴埋め問題があります。
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□肉□食
□に文字を入れなさい
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こうあったら、問題文通りにとると文字なら何を入れても正解になります。「文字を入れろ」としか言っていないのですから。ここで「行間を読め」とか「常識で判断しろ」などと言うのはよくありません。問題文を普通に読むとそうとしか読めないような文ですから、それを正しく読んで正しく解釈した人が不正解とされてはたまりません。潔く「問題文が悪かった」と言うべきです。
もし「□に文字を入れて熟語を完成させなさい」とあったら(たいていの問題にはこう書いてあると思います)、熟語になる文字を入れなければなりません。
すると今度は「焼肉定食というのは熟語か」という問題が生じます。
私が最初に問題にしたのが「エクスキューズ」の問題、つまり「これは熟語です」と断ってあるかどうかです。そして次の問題が、それらしい答えを議論の余地なく一方的に間違いとすることに対する問題です。
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脆弱な結論を出して満足するよりは、「それは脆弱で、データを集めないと結論は出せない」と言えるほうが重要です。
特に公務員はそう言える人間が少なく、いつまでたってもとんでもない少子高齢化の推計とか国債残高とか道路公団の債務返済見積もりなんかが出来上がってきます。
自然科学の現場だったら、そういう脆弱な結論はあくまで「仮説だ」としか言わないはずです。それを「これが答えだ」と言うのがよくないのです。
「わからない」という答えをもっと大事にすべきだと思います。
No.444) 『議論のしかた』のページについて 焼鳥(Sun Sep 12 07:39:55 2004)
ちょっと質問なのですが。

> ゲーデルによって、どんな主義にも「どちらともいえない」と言わざるを得ない問題があることが証明されました。
> だから、「『どちらともいえない』なんていう答えはおかしい」とは言ってはいけません。
> そしてその逆である「どちらともいえる」という問題も存在するのです。
> だから「『どちらともいえる』なんていうあいまいな答えはおかしい」とも言ってはいけません。

上記の“どんな主義にも”というのは正しいのでしょうか。
例えばペアノ算術の論理式の中には真偽を確定できないものが存在することが示せますが、
これはペアノ算術が十分に強力(ペアノ論理式で表せる述語は算術的述語に一致し、これは算術的階層の一番上に位置する)だからこそ示せることであって、もっと弱い体系だったなら、例えば原始帰納的述語を考えたならば、これは原始帰納的関数で定義されるわけですから、
このクラスの述語は決定可能なのではないでしょうか。

私は数学基礎論を専門としているわけではないので
もしかしたら誤解に基づく部分があるかもしれません。
もしそのような部分があったならばご教示ください。

それから大抵の議論は人間が自然言語を用いて行うわけですから、
ゲーデルの不完全性定理があるから「『どちらともいえる』なんていうあいまいな答えはおかしい」という言明は
誤りではないですがあまり意味がない。

No.448) 不完全性定理の話 iwatam(Mon Sep 13 21:51:33 2004)
ご意見ありがとうございます。私も数学基礎論は専門外であり誤解もあると思いますので、何かありましたらご教示いただければと思います。
 ご指摘の部分ですが、確かに少々いい加減な論法であることは認めるところです。しかし、数学基礎論における不完全性定理までの流れと相対主義は議論というトピックにおいて非常に面白い例だと思いましたので載せました。ただし、ご指摘のように多少混乱があります(定理の内容と定理をめぐる議論がごっちゃになっている)ので、もう少し文章を考えてみます。
 おっしゃるように、「どんな主義でも」というのは厳密には正しくなく、自然数論以上に強力な表現力を持つなら、という条件がつきます。
No.453) 不完全性定理 焼鳥(Tue Sep 14 00:02:42 2004)
不完全性定理のところについてはもう一箇所「あれ?」って思ったところがあるのですが、それはまたの機会に。
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