編集や削除のご要望がありましたら個別にやります。遠慮なくおっしゃって下さい。
No.552) 「ゆとり教育」とは何かというコラムについて。 star(Thu Dec 30 06:46:02 2004) |
元々数学教員志望で、「ゆとり教育」について知る前までは
「問題の問題」に書かれていたiwatamさんの考えに似たこと、「あえて疑問を持たせる授業」を
やりたいと思っていました。
ただ最近は「ゆとり教育」という言葉にとらわれ忘れていましたが、今結びつきました。
大変参考になりました。
とても勝手ですが、卒論を書く際にも参考にさせて頂いてよろしいでしょうか?
No.553) もちろんかまいませんが少々心配 iwatam(Fri Dec 31 16:10:44 2004) |
No.554) あけましておめでとうございます。 star(Sat Jan 1 03:05:43 2005) |
色々生意気言ってすいません!
No.541) ゆとり教育とか,教育関係のコラムについて 風花(Fri Dec 24 13:50:30 2004) |
No.545) 面白い話をありがとうございます iwatam(Fri Dec 24 19:40:15 2004) |
No.522) コラム「宗教とは何か」について 風花(Thu Dec 16 12:37:28 2004) |
ところで,ひとつ聞いてみたいことがあります。
タイトルにも書きましたように,コラム「宗教とは何か」についての内容です。
コラムの中では(多生乱暴にまとめますと,)「諸行無常=仏教」というようなことが書かれていますよね?
ここで,仏教として諸行無常を学んだものの,その意味を完全に誤解しており,その誤解したものを信じている場合,これはiwatamさんが言うところの「仏教徒」ではないということでいいですか?
でも,その当人は自分のことを「仏教徒」だと認識してますよね?
逆に,自分の信じているものが「諸行無常ではない」と誤解している(つまり,実際は諸行無常を信じている)場合,iwatamさんの考えだと「仏教徒」ですが,当人は「仏教徒」ではないと考えていると思います。
つまり,「その人を「仏教徒」だと認識するかどうか」と「本当にその人が「仏教徒」かどうか」は厳密に考えると違う事柄ではないでしょうか。
つまり,「諸行無常を信じている=仏教徒」ではあっても,「その人が信じていることは「諸行無常」かどうか」の判断が正しくなければ実際にその人が仏教徒かどうかはわかりません。
究極的には「諸行無常とは何か」を正確に理解しないと「その人が信じていることは「諸行無常」かどうか」の判断の正誤はわかりませんから,正確な理解のない限り,その人が「仏教徒」かどうかはあくまで判断する人の主観にしかなり得ず,本当のところは分からないと思うのですが。
どうでしょうか。
文章わかりにくいかな・・・(汗)。
No.523) あなたの言うとおりです iwatam(Fri Dec 17 02:14:22 2004) |
No.526) 自分なりにいろいろ考えてみました。 風花(Fri Dec 17 12:38:10 2004) |
とありますが,例えば程度として「どちらかと言えば仏教徒」「ちょっと仏教徒」「ほとんど仏教徒ではない」という人がそれぞれ「仏教徒」と呼ばれるかどうか。
(つまりその人の考え方・信条に対して「仏教」というカテゴライズができるかどうかと言ってもいいかもしれません。)
これは呼ぶ人それぞれの「仏教」「仏教徒」という言葉の使い方によって変わってくると思います。
ただ,それを「仏教徒」とするかしないかは別にして,「その人なりの信条」がそこにはあり,例え「仏教」と呼ばれなくても「宗教的考え方」には違いないと思います。
この例は仏教でしたが,仏教に限らず,このようなことは言えると思います。
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そして,このような考え方に立てば,宗教とは,どう呼ばれるかではなく,「その人なりの信条」そのもののことである,と言えるような気がしています。
既知の宗教として名前があるものに近い信条であれば「○○教」と呼ばれるでしょうが,自分の信条を「○○教」だと分類することは「宗教」の本質ではないと感じました。
しかし,一般的には「宗教=既存の宗教に分類すること」というイメージで語られることが多いように思っています。
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余談ではありますが,よく言われる無宗教や多宗教というのは,その人の信条が既知の宗教の名前では呼べないものである(もしくは既知の宗教のどれかにカテゴライズする意思がない)という意味に解釈出来そうです。
これについてはあまり考察していませんが・・・。
No.528) 割り込み失礼 エリー(Fri Dec 17 17:23:52 2004) |
No.529) 私は大歓迎ですが。 風花(Fri Dec 17 20:07:51 2004) |
No.530) iwatamさん、ごめんなさい エリー(Sat Dec 18 01:02:33 2004) |
No.531) どうかお気になさらず iwatam(Sat Dec 18 22:15:16 2004) |
No.532) 二人ともありがとう エリー(Sat Dec 18 23:16:12 2004) |
No.533) 細かい話になりますが iwatam(Sun Dec 19 18:31:22 2004) |
変なたとえで恐縮ですが、この話をトイレに例えると、宗教はトイレの臭いを抑えるために「消臭剤を置く」という手段なのではなく、消臭剤そのものであるということです。
No.534) Administrator(Sun Dec 19 23:44:30 2004) |
No.535) たとえで混乱したとしたらすみません iwatam(Mon Dec 20 21:35:42 2004) |
No.536) お返事遅くなりました。 風花(Tue Dec 21 11:26:02 2004) |
>宗教は「信条」であって、自分の中に常に存在しているものです。そして、それが過去に
誰かが言った何かのパターンに似ていれば、それが「キリスト教」とか「仏教」と呼ばれるものになる、ということです。
>「信条」というのは、そう自分がそう考えればそうなる類のものですから、ある信条を持つのに方法論は必要ありません。単に「なるほど、僕もそう考えよう」と思えばそうなるものです。
>宗教の目的ですが、私は究極的には「ない」と考えます。目的は宗教にあるのではなく、我々人間の方にあるのだということです。
というのは,私の考えている「宗教」をとてもわかりやすく表現しています。私もこう書けばよかったのですが,いかんせん文章力が・・・。
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「消臭剤」の例えは少し分かりにくいですね。
エリーさんの発言で言うと,
>私の場合「自分だけが答えを知らない」とあれこれ質問していました。だから「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」と考え方を変えれば解決します。前者は誤りで、後者は正しい。だから一度気づけばそれ以上迷うことはありません。
という部分で,エリーさんは「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」と考え方を自分に気付かせた「何か」が宗教なので,気付いてしまえば後には宗教は必要ないとお考えなのでしょうか。
私は,「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」と考える,その考え方を(あるいはその考え方の元になっているものを)宗教と呼んでいるので,「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」という考え方をする限り,そういう宗教(信条)をエリーさんは持っている(持ち続けている)という表現になります。
No.538) キリスト教解釈 エリー(Tue Dec 21 23:20:17 2004) |
No.542) 私が誤読してなければ 風花(Fri Dec 24 17:37:18 2004) |
No.543) 私も後者です エリー(Fri Dec 24 18:12:43 2004) |
No.544) 誤読→理解 風花(Fri Dec 24 18:53:43 2004) |
No.546) 言葉の表現が違うだけで同じだと思います エリー(Fri Dec 24 20:52:32 2004) |
No.547) 宗教と安心 iwatam(Sun Dec 26 17:56:55 2004) |
No.548) 杞憂と同じ? エリー(Mon Dec 27 02:23:24 2004) |
No.549) 「不安」と「宗教を意識する時」 風花(Mon Dec 27 11:04:48 2004) |
No.550) 変化と不安 エリー(Mon Dec 27 20:40:49 2004) |
No.539) 毎度毎度返事が遅れてしまいますが・・ iwatam(Wed Dec 22 22:56:05 2004) |
No.540) 構造主義? エリー(Fri Dec 24 12:17:07 2004) |
No.551) すみません、お答えがまだでした iwatam(Tue Dec 28 23:23:34 2004) |
No.537) 時間的変化? エリー(Tue Dec 21 23:10:02 2004) |