iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

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No.552) 「ゆとり教育」とは何かというコラムについて。 star(Thu Dec 30 06:46:02 2004)
はじめまして。今大学4年で卒論でゆとり教育について考えています。
検索でここにたどり着いて教育に関するコラムを
ざっと見させて頂きました。
下の風花さんの投稿も合わせて読んで私はカルチャーショックを受けたという思いと
ひっかかっていたものが取れたという思いの2つができました。
「ゆとり教育」そのものについて論理していたからです。
文科省では「ゆとり教育」を完全週休2日制とか内容3割削減して
勉強するゆとりを与えるものとしていましたが、
「ゆとり」違いだろとは思っていたのですが、
じゃあ本来の「ゆとり教育」って何だろう?と「手段」として考えていた時にこちらのコラムを見て大変驚きました。
私が考えていたところよりもっと前のとこが
問題だったとは思いもしませんでした。

元々数学教員志望で、「ゆとり教育」について知る前までは
「問題の問題」に書かれていたiwatamさんの考えに似たこと、「あえて疑問を持たせる授業」を
やりたいと思っていました。
ただ最近は「ゆとり教育」という言葉にとらわれ忘れていましたが、今結びつきました。

大変参考になりました。
とても勝手ですが、卒論を書く際にも参考にさせて頂いてよろしいでしょうか?

No.553) もちろんかまいませんが少々心配 iwatam(Fri Dec 31 16:10:44 2004)
ご覧いただきありがとうございます。
もちろん私の書いたものはどう使っていただいてもかまわないのですが、一つ心配があります。というのは、私は教育に関しては素人もいいとこなので、いろいろ書いたことを決して鵜呑みにしないでください。
普通の人に読まれるのなら「ああ、iwatamはまたバカなこと書いてるな」でおしまいですが、プロの方に影響があるとなると、私もだいぶ心配なのです。
ここに書いてあることは素人のヨタ話レベルのものですので、ご使用はat your own riskでお願いします。
あと、いろいろ間違っていることがあると思いますので、ご指摘いただけると幸いです。
No.554) あけましておめでとうございます。 star(Sat Jan 1 03:05:43 2005)
いえいえどうもありがとうございます。
私も学生の分際ですし、実は教育学部というわけではございません。
ただ思うのは、今後意見が必要なのは教育に関わっていない人(プロでない人)の
意見はとても大切にしなければいけないと考えています。
今までの教育は閉鎖的でした。今でもまだまだそうだと思います。
文科省だけにとどまらず、教育者も閉鎖的です。
ですからそんなかやの中だけで論議していてもいい結果は生まれないと考えています。
むしろかやの外におられる普通の人のほうが一般的な教育についてはまともなことを言います。
だから最近では民間校長という一回社会に出た人を起用しようという試みが出たんだと思います。
校長の地位に付けさせるのはいいかどうかわかりませんが、教育の現場に投入することは
良いことだと考えています。
どんどん開放的にして、色んな人の意見も
取り入れるべきです。
今回のiwatamさんの意見はプロの人が見たら間違っているとこがあると指摘するかもしれませんが、私にとってはとても新鮮な考え方で、とても意見の幅が広がるものでした。
ただ私の理想教育像と違う、納得できないなどがあった時は遠慮なく議論させていただきます。

色々生意気言ってすいません!

No.541) ゆとり教育とか,教育関係のコラムについて 風花(Fri Dec 24 13:50:30 2004)
 「ゆとり教育とは」「問題の問題」「本当の学習とは」を読みました。
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 もともと,「ゆとり教育」で検索してこちらのコラムを見つけましたので,興味のある分野なのですが。
 最近「ゆとり教育」についていろいろ話題になっています。私の考えはiwatamさんと似た感じです。簡単に言うと「理念はいいが,手段がともなっていない」というものです。
 つまり,私は「ゆとり教育」とは教育の「理念」を表す言葉だと考えています。
 ところが,いくつかのサイトで「ゆとり教育批判」の意見を散見したのですが,大抵は「理念」には触れず,教育の方法論について書かれていました。
 つまり,世間で批判されている「ゆとり教育」は理念ではなく「方法(手段)」を表す言葉として使われているようです。
 同じ「ゆとり教育」という言葉を使いながら,違うものについて書かれているので混乱しやすいのですが,方法論についてだけ言うなら,今のままでは良くないと言うのは私もそう思います。
 そもそも「ゆとり教育」とは理念の名前なのか,方法の名前なのか。もしくは,理念も方法も同じ「ゆとり教育」という名前なのか。
 文部科学省のサイトとかで調べてないので,正解は知りませんが。
 ここのコラムでは「理念」として書かれているのが明確なので大変判りやすかったです。
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 「本当の学習とは」で触れられていた,国際学習到達度調査での問題内容について。
 私は,昨年度の千葉県の県立高校の入試問題(http://www.tokyo-np.co.jp/04_k-shiken/cba/cba-ko/ko7.shtmlに掲載されているようです)を連想しました。憶えてらっしゃるか判りませんが,受験者の約半数が回答出来なかった問題があった,というものです(私のBlogでも今年の5月くらいに記事にしたのでよろしければ参照してみてください→http://kazahana.at.webry.info/200405/article_16.html)。
こういうタイプの問題に「答えられない」というのが,私としては不思議でならなかったのですが,ここのコラムに書いてあるように「テストにはそういう答はない」という固定観念があったということなら何となく納得,という感じです。
No.545) 面白い話をありがとうございます iwatam(Fri Dec 24 19:40:15 2004)
千葉県の問題というのは初めて見ました。日本にもなかなか粋な先生がいるようですね。
生徒達が困惑する様子が目に見えるようです。多少記述に不足がある点は否定できませんが、その困惑を乗り越えることこそが重要なのだと思います。
それにしても、学習塾を「教育関係者」と呼ぶとは。彼らは受験対策のプロであって、教育のプロではないと思うのですが。
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ゆとり教育の理念と方法の話なのですが、世間は何か少し勘違いをしているように思えます。
もともと、文部科学省が教育に関して何ができるかと考えると、お金を出すことと目標を立てることしかできないはずです。実際に教えるのは学校の先生なのですから。
文部科学省ができるのはせいぜい、単元を減らすとか少人数学級にするというように、先生がゆとり教育をやりやすい環境をつくることだけです。いくら文部科学省だけががんばっても、先生ががんばらなければ何も始まりません。
もちろん、先生ががんばっていないと言うつもりではありません。ゆとり教育の「方法」と呼ばれているものは、実は方法でもなんでもないということです。だから、そこを批判するのは的外れです。
ゆとり教育の目的は、生徒に考えるというのはどういうことなのかをわかってもらうことにあります。つまり、ゆとり教育の理念を語ることこそが、ゆとり教育の方法だといえます。
No.522) コラム「宗教とは何か」について 風花(Thu Dec 16 12:37:28 2004)
初めまして。風花と申します。
「ゆとり教育」関係で検索してまして,こちらのサイトに参りました。
いくつかコラム読ませていただき,大変興味深かったです。

ところで,ひとつ聞いてみたいことがあります。
タイトルにも書きましたように,コラム「宗教とは何か」についての内容です。

コラムの中では(多生乱暴にまとめますと,)「諸行無常=仏教」というようなことが書かれていますよね?
ここで,仏教として諸行無常を学んだものの,その意味を完全に誤解しており,その誤解したものを信じている場合,これはiwatamさんが言うところの「仏教徒」ではないということでいいですか?
でも,その当人は自分のことを「仏教徒」だと認識してますよね?
逆に,自分の信じているものが「諸行無常ではない」と誤解している(つまり,実際は諸行無常を信じている)場合,iwatamさんの考えだと「仏教徒」ですが,当人は「仏教徒」ではないと考えていると思います。
つまり,「その人を「仏教徒」だと認識するかどうか」と「本当にその人が「仏教徒」かどうか」は厳密に考えると違う事柄ではないでしょうか。
つまり,「諸行無常を信じている=仏教徒」ではあっても,「その人が信じていることは「諸行無常」かどうか」の判断が正しくなければ実際にその人が仏教徒かどうかはわかりません。
究極的には「諸行無常とは何か」を正確に理解しないと「その人が信じていることは「諸行無常」かどうか」の判断の正誤はわかりませんから,正確な理解のない限り,その人が「仏教徒」かどうかはあくまで判断する人の主観にしかなり得ず,本当のところは分からないと思うのですが。

どうでしょうか。
文章わかりにくいかな・・・(汗)。

No.523) あなたの言うとおりです iwatam(Fri Dec 17 02:14:22 2004)
おっしゃる通り、仏教ではないものを勝手に仏教だと誤解して信じていても、それは仏教ではないものを信じているので仏教徒ではありません。
逆に、仏教を勝手に仏教ではないと誤解して信じていても、それは仏教徒です。
本人が仏教徒だと考えているかどうかと、その人が仏教徒かどうかは別物です。
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一つの問題は、その人が誤解しているかどうかはその人の頭の中をのぞいてみないとわからないことです。だから、ある人が「俺は仏教徒だ」と主張したとき、私は「本当ですか?あなたは仏教徒という言葉をどういう意味で使っていますか?」とは聞けても、「お前は仏教徒ではない」とは言えません。
しかし、私は誰かが仏教徒であるかどうかには興味がないので、別にその人がそう主張するのなら勝手にすればいいと持っています。私は知りたいと思わないので、わからなくてもかまいません。
ただ、誤解している人に「あなたは仏教徒という言葉をどういう意味で使っていますか?」と質問すると違った答えが返ってきますから、誤解しているかどうかはわかります。私が問題視しているのは誤解していることについてであって、仏教を信じているかどうかは正直どうでもいいのです。
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もう一つ、蛇足ながら付け加えます。
「仏教徒」は、仏教徒かそうでないかのオールオアナッシングではなく、完全な仏教徒からだいたい仏教徒、どちらかといえば仏教徒、ちょっと仏教徒などたくさんの程度があります。だから、厳密に考えると仏教徒ではないからといって、仏教徒ではないことにはなりません。
No.526) 自分なりにいろいろ考えてみました。 風花(Fri Dec 17 12:38:10 2004)
お答えありがとうございます。
自分が,iwatamさんの意図を概ね誤解なく読めているようで安心しました。
そして,このコラムやお答えを読んで,自分でも「宗教」というものについて考えてみました。
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例えば「仏教」について。
>完全な仏教徒からだいたい仏教徒、どちらかといえば仏教徒、ちょっと仏教徒などたくさんの程度があります。
>だから、厳密に考えると仏教徒ではないからといって、仏教徒ではないことにはなりません。

とありますが,例えば程度として「どちらかと言えば仏教徒」「ちょっと仏教徒」「ほとんど仏教徒ではない」という人がそれぞれ「仏教徒」と呼ばれるかどうか。
(つまりその人の考え方・信条に対して「仏教」というカテゴライズができるかどうかと言ってもいいかもしれません。)
これは呼ぶ人それぞれの「仏教」「仏教徒」という言葉の使い方によって変わってくると思います。
ただ,それを「仏教徒」とするかしないかは別にして,「その人なりの信条」がそこにはあり,例え「仏教」と呼ばれなくても「宗教的考え方」には違いないと思います。

この例は仏教でしたが,仏教に限らず,このようなことは言えると思います。
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そして,このような考え方に立てば,宗教とは,どう呼ばれるかではなく,「その人なりの信条」そのもののことである,と言えるような気がしています。
既知の宗教として名前があるものに近い信条であれば「○○教」と呼ばれるでしょうが,自分の信条を「○○教」だと分類することは「宗教」の本質ではないと感じました。
しかし,一般的には「宗教=既存の宗教に分類すること」というイメージで語られることが多いように思っています。
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余談ではありますが,よく言われる無宗教や多宗教というのは,その人の信条が既知の宗教の名前では呼べないものである(もしくは既知の宗教のどれかにカテゴライズする意思がない)という意味に解釈出来そうです。
これについてはあまり考察していませんが・・・。

No.528) 割り込み失礼 エリー(Fri Dec 17 17:23:52 2004)
 風花さん初めまして。エリーと申します。
 宗教はとても興味のある話題なので、ほげげんさんの質問からずっと注目していました。割り込むのは失礼だと思い迷ったのですが、書き込みさせてもらいました。ご迷惑ならおっしゃってください。削除します。
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 私は宗教を「人の成長を助ける指針を提供してくれる知恵」だと考えています。この前提に添って考えた結果が以下のようになります。
 キリスト教の提供の仕方はテーゼ(神)を提供し、アンチテーゼ(悪魔)を持つことで乗り越えていく価値観の戦い。得られるのは判断力だと思います。
 仏教の提供の仕方は心の働きを説明し、原因を理解させようとする態度。得られるのは理解力だと思います。
 成長を促すことが目的なら、教義を知ることではなく考える過程に意味があると思います。過程で得られる発見は人それぞれです。だから宗教はいろんな宗派に分かれていくのだと思います。
 どういう提供のされ方がいいのかは人によって違います。だからいろんな宗派があるのはいい事だとおもいます。
 私には仏教もキリスト教も「あれこれ悩まず出来ることを頑張れ」と言っているように思えます。結局、言いたいことはひとつなのではないかと思うのです。
−−−
 あのー、自分の主張が正しいと言いたいわけではないので誤解しないで下さい。違う意見があった方が議論が面白くなる気がしたので書き込みさせていただきました。意見が分かりにくくて、かえって混乱させてしまわないか心配です。
 私は「その人なりの信条」を得ることは、「分からないことが分かるようになり成長した」と同じだと思うのですが、風花さんが意図していることと同じでしょうか?
 割り込み失礼しました。
No.529) 私は大歓迎ですが。 風花(Fri Dec 17 20:07:51 2004)
 エリーさん初めまして。
 私は構わないのですが,ここはiwatamさんのゲストブックなので,iwatamさんがどう思われるかが若干不安ではあります。
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 >「その人なりの信条」を得ることは、「分からないことが分かるようになり成長した」と同じだと思う
 >宗教を「人の成長を助ける指針を提供してくれる知恵」だと考えています
 というのは,「「その人なりの信条」を得るのを助けるような指針を提供する知恵」を宗教だと捉えているということでしょうか。
 読み違えていたらすいません。
 もしそうであれば,私の意図とは多少ずれていますね。
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 私の意図したところでは,「宗教」は「その人なりの信条」そのものです。
 ちなみに私の言う「信条」とは,行動指針や考え方の基盤にあるもの,という意味で使っています。自分の中に常に存在しているもので,成長によって「新しく得る」と言うよりも「変化する」と言うようなものです。
 キリスト教や仏教などはこれらの「信条」の一つに固有の名前が付いたものです。
 例えば,その人の信条が「仏教という信条」に似ていれば仏教徒と言えるでしょうし,逆に「仏教という信条」に触れることで,それに共感し,自分の信条を仏教と似たようなものにするということもあるでしょう。
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 エリーさんのような表現の仕方をするならば,「人の行動・考え方の指針のもとになるもの」となるでしょうか・・・。
 必ずしも成長を助けるという方向性があるわけではないと考えています。
 その人が「成長」を志向するなら,その信条(宗教)は成長を助けるものになるでしょうが,そうでないなら成長を助けるものではないこともあるでしょう。
 そして,そのようなものでも信条であり,宗教であると考えました。
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 私の文章もかなりわかりにくいのでは,という自覚がありますので,きちんと意思疎通できるか少し不安・・・(汗)。
No.530) iwatamさん、ごめんなさい エリー(Sat Dec 18 01:02:33 2004)
お返事ありがとうございます。
確かに先に主催者の了解を得るべきでした。iwatamさん、ごめんなさい。
−−−
私はどの宗教もいいたいことは同じだと思っています。
未来が見えないからと言って不安に思ったり、恐れるなというような内容です。
でも現実には不安になるし、恐怖を持ちます。
だから「こう考えればよくなるかも?」というやり方の提案が宗教なのかなと思っています。
−−−
風花さんは「目的は宗教によって違う」と思われているようですね。
そこが違うのだと分かってすっきりしました。
ありがとうございます。
No.531) どうかお気になさらず iwatam(Sat Dec 18 22:15:16 2004)
ここでは何でも好きなことを書いてもらってかまいません。出会い系サイトの宣伝は勝手に削除しますが・・
ちょっと返事し遅れてしまったのは、お二人が私の言いたいことをすべて言ってくれているので何を書くかを迷っていたのです。
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お二人の言っていることは、両方ともその通りだと思います。
宗教は「信条」であって、自分の中に常に存在しているものです。そして、それが過去に
誰かが言った何かのパターンに似ていれば、それが「キリスト教」とか「仏教」と呼ばれるものになる、ということです。
「信条」というのは、そう自分がそう考えればそうなる類のものですから、ある信条を持つのに方法論は必要ありません。単に「なるほど、僕もそう考えよう」と思えばそうなるものです。だから、「人の考え方の指針」と「人の考え方の指針を持つのを助けるもの」は同じです。
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宗教の目的ですが、私は究極的には「ない」と考えます。目的は宗教にあるのではなく、我々人間の方にあるのだということです。
No.532) 二人ともありがとう エリー(Sat Dec 18 23:16:12 2004)
参加できて嬉しいです。
風花さんと私の違いについて考えてみました。
−−−
私には「共通点」に注目する傾向があるようです。私は最近まで「内容を理解した」と伝える為にしゃべっていました。今は違いますが、要するに理解したことを褒めて欲しかったのだと思います。
−−−
でも「共通点を探そうとすること」を哲学と言うのですね。誤解される原因が分りました。「同じだよね?」と聞く裏にあるのは「同じ意見なのだから私と一緒に遊びましょう」という気持ちです。当然ならが全く分かってもらえません。そして6年くらいケンカしてしまいました。
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「同じところ」と「違うところ」を探すことが会話の目的なので、結論を出すわけではなく次々と話題が移っていきます。具体的な例を上げては「どう思う?」を繰り返し聞く。それが「論点がずれる」と言われる理由なのだと思います。
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風花さんは「仏教そのもの」について問題にしているのですよね?
仏教と呼べる範囲はどこまでで、中心になるものは何か。
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私にとって宗教は「不安や恐怖を取り除く為の助け」なので自信を持った段階で不要になります。役割を終えたと考えます。宗教家には後世に伝え保存していく役割があります。しかし一般人である私にとっては参考程度のものです。「参考であって目的を果たすものではない」という意味なら私もiwatamさんの意見に賛成です。
No.533) 細かい話になりますが iwatam(Sun Dec 19 18:31:22 2004)
私の思っているニュアンスとは少し違うようです。
「不安や恐怖を取り除くための助け」であるというのは同じですが、それはいったん取り除いたらおしまいで不要になるものではなく、ずっとその人の中にあって取り除き続けるものです。「自信を持った段階で不要」なのではなく、その自信こそが宗教であるということです。

変なたとえで恐縮ですが、この話をトイレに例えると、宗教はトイレの臭いを抑えるために「消臭剤を置く」という手段なのではなく、消臭剤そのものであるということです。

No.534) Administrator(Sun Dec 19 23:44:30 2004)
私は「ニュアンスの違い」は「タイプの違い」だと思います。
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私の場合「自分だけが答えを知らない」とあれこれ質問していました。だから「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」と考え方を変えれば解決します。前者は誤りで、後者は正しい。だから一度気づけばそれ以上迷うことはありません。
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知人は真偽を判断する能力に恵まれている為、理想と堅実のどちらの方法を選ぶか迷うようです。「理想」と「堅実」はどちらも正しい。だから死ぬまで迷うと思います。
私はそういった判断力には恵まれていませんから、「やりたい」と思った方を選びます。「する・しない」ではなく「出来る・出来ない」しか考えません。
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それで知人に「そんなにあれこれ悩めるなんてすごいね。いったい何が問題なの?」と言ったことがあります。私にはどちらも同じに見えたので、褒めているつもりでした。まったく失礼な奴ですよね。私が「面白いね」と言われて嫌だったのと同じくらい彼に不快感を与えてしまったと反省しています。今は何故言ってはいけなかったのか分かりますが、その時は何が悪いのか分からず極度に話すことを恐れるようになりました。
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彼の不快感は理解されても私の不快感は理解されないでしょう。一般的ではないから。しかしどちらも「煩悩から起こる問題」なのだと思います。私にとって「自分の問題を解決する」という意味では宗教は不要になりました。しかし今も「他人を理解する」という意味で参考にしています。それなら「消臭剤」というのは「生涯何かを求めて参考にする」という意味なのかしら?
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今は人物の性格描写と煩悩の関係を調べているところです。まとまったらまた参加させてもらいます。私がこのレスに参加し続けると話が脱線するので、そろそろ失礼します。ゲストブックは拝見していますので、もし間違って解釈しているようなら言ってください。
No.535) たとえで混乱したとしたらすみません iwatam(Mon Dec 20 21:35:42 2004)
私が言った「ニュアンスの違い」とは、「言葉の使い方が違うだけで同じことを言っているんじゃないでしょうか」という意味です。
「知る」ということを、一度知ったらそれで終わる瞬間的な行為だと見るか、知った瞬間からずっと覚えているという持続的な状態だと見るかの違いです。
No.536) お返事遅くなりました。 風花(Tue Dec 21 11:26:02 2004)
 週末はあまりPC触らないもので・・・。
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 iwatamさんとエリーさんの書き込み読みました。
 私の見解はiwatamさんが大変わかりやすく書いてくれています。ありがとうございます。

>宗教は「信条」であって、自分の中に常に存在しているものです。そして、それが過去に
誰かが言った何かのパターンに似ていれば、それが「キリスト教」とか「仏教」と呼ばれるものになる、ということです。
>「信条」というのは、そう自分がそう考えればそうなる類のものですから、ある信条を持つのに方法論は必要ありません。単に「なるほど、僕もそう考えよう」と思えばそうなるものです。
>宗教の目的ですが、私は究極的には「ない」と考えます。目的は宗教にあるのではなく、我々人間の方にあるのだということです。

 というのは,私の考えている「宗教」をとてもわかりやすく表現しています。私もこう書けばよかったのですが,いかんせん文章力が・・・。
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 「消臭剤」の例えは少し分かりにくいですね。
 エリーさんの発言で言うと,
>私の場合「自分だけが答えを知らない」とあれこれ質問していました。だから「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」と考え方を変えれば解決します。前者は誤りで、後者は正しい。だから一度気づけばそれ以上迷うことはありません。

 という部分で,エリーさんは「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」と考え方を自分に気付かせた「何か」が宗教なので,気付いてしまえば後には宗教は必要ないとお考えなのでしょうか。
 私は,「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」と考える,その考え方を(あるいはその考え方の元になっているものを)宗教と呼んでいるので,「誰も正解は知らない。答えはいくつもある」という考え方をする限り,そういう宗教(信条)をエリーさんは持っている(持ち続けている)という表現になります。

No.538) キリスト教解釈 エリー(Tue Dec 21 23:20:17 2004)
 風花さんへ
 またお邪魔してしまいました。
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 「答えは一つではない」と思うようになった出来事は「知人とのケンカ」や「育児」などいろいろです。いろんなものに手がかりを求めましたが、「ルシファが傲慢である理由」について考えてみたことが大きなヒントになりました。
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 宗教のテーマが「恐怖を取り除き安心して暮らすための方法」なら、題材や切り口が違うだけで言いたいことは同じだと思います。仏教、キリスト教、北欧神話(ルーン文字)、タロット、占星術など多方面から参照しています。
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 意見が食い違うのは……私がキリスト教を「神の絶対を信じる宗教」だと思ってないからかもしれません。自分の価値観を持たない子供が「神と悪魔(父と子)の争い」を通じて成長し、価値観を持つようになる話と解釈しました。「親(神)の意見が絶対ではない=答えは一つではない」として使っています。
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 私はそう思ったというだけの話です。でも宗教によって「信条は違う」と思う風花さんと、「信条は同じ」と思う私の違いはキリスト教の解釈から来るような気がするので自分の解釈を書きました。「違うもの」と考えるなら、「絶対を信じない」という意味で仏教に該当すると思います。
No.542) 私が誤読してなければ 風花(Fri Dec 24 17:37:18 2004)
 何となくわかってきたような気がします。
 誤読でなければよいのですが・・・。
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 ひとつだけ,質問です。
 エリーさんは,
 「恐怖を取り除き安心して暮らすための方法」の一つとして,仏教やキリスト教,その他様々な方面から参照し,「答えは一つではないという考え方」を得た。仏教でもキリスト教でも示唆される考え方は同じだ。
 という考えなのでしょうか。それとも,
 「恐怖を取り除き安心して暮らすための方法」はいくつかあり,○○教(例えばキリスト教?)などを参照し,それらの方法の中の一つとして「答は一つではない」という考え方を得た。それぞれの宗教によって示唆される考え方は違っても,「恐怖を取り除き安心して暮らすための方法」という方向性は一緒だ。
 とお考えなのでしょうか。
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 私の考えは後者に近いものです。
 もう少しつっこんで書くなら,「恐怖を取り除き安心して暮らすための方法という方向性」さえも必要ではなく,何らかの「考え方」でさえあれば宗教だと考えているのですが。
No.543) 私も後者です エリー(Fri Dec 24 18:12:43 2004)
 人によって何に不安を感じるかは違います。必要な助けも違います。でも求めているのは安心や幸福と共通していると思います。
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 私も風花さんと同じことが言いたいのですが、生まれ育ちなど背景の違いから「違う表現」になってしまうのだと思います。
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 私は宗教は「生きることに対する考え方」だと思うのですが、風花さんはどのように思われますか?
 対象が違うと結果も違ってくるように思うので、確認させてください。
 生きる中には、過去もあれま、未来も現在もあります。不安や恐怖を取り除くこともあれば、より幸福になりたい欲望に対するものもあります。それら全体を「安心して暮らす」と表現しています。
No.544) 誤読→理解 風花(Fri Dec 24 18:53:43 2004)
 あ,では多分,同じことを言っています。
 「宗教=その人なりの考え方」と何度か書いてきましたが,何に対してかと言われれば「生きることに対して」になると思うので。
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 初めにエリーさんの意見を見た時には,やはり表現の違いからか,前者のような考え方なのかな,と思っていました。誤読だったようです。
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 「生きること」の中で,人が求めるのは安心と幸福であり,それら全体を「安心して暮らす」と表現するという考えも,理解出来ました。
 ただ,私は「人生とは苦行や罰であり,自ら安息を求めたりしないものだ」という人も,もしかしたらいるかもしれない。そういう宗教もあっていい。と考えているので,「求めているもの(方向性)」も異なることがあると考えています。
 もしかしたらこれも,「安心」とか「幸福」という言葉の表現が違ってるだけで,同じことを言ってるのかもしれませんが・・・。
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 私なりの表現だと,「生きること」というより「生き方」というニュアンスの方が近いかな・・・?
 この辺になると自分の中でも微妙な言葉の使い分けになってくるので,ニュアンスがどれくらい伝わるかがわかりませんが。
No.546) 言葉の表現が違うだけで同じだと思います エリー(Fri Dec 24 20:52:32 2004)
 苦行に耐えることに達成感を感じるなら、それはその人にとっての幸福だと思います。
 黒魔術も周囲は迷惑ですが、使う当人は幸せです。でも生贄を捧げることはいつ自分が犠牲になるか分からない不安があるから、一時的な幸福に過ぎないと思います。仏教、キリスト教、イスラム教など多くの人が受け入れる宗教では「皆が幸せになること」を求めています。一時的に損をしても、最終的には自分の幸せにつながる方法だと思います。
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 細かな違いなのでどちらでもいいのですが、「生き方」が「そうしたいと願うこと」なら、「思い通りにはならない現実」を「生きること」と言っています。思い通りにいかないから悩んだり、迷ったりすると思うからです。
 「神様仏様」とお願いする時も、「神も仏もない」と怒りをぶつける時も、うまくいかない時だと思うからです。「一年無事に過ごせてありがとう。来年もよろしく」という願掛けも未来に対する不安をやわらげたいからだと思います。
 私が宗教を意識する瞬間はそんなところです。風花さんが宗教を意識する瞬間はどんな時でしょうか? チェーンメール気味なので、そろそろ質問はやめましょうか?
No.547) 宗教と安心 iwatam(Sun Dec 26 17:56:55 2004)
仏教やキリスト教では、「安心して暮らせるようにする」という言葉の解釈が少し難しくなります。
不安を取り除くのではなく、「不安は存在しないのだ」と定義してしまうからです。特に何もしなくても、単に安心したと思うだけで安心できてしまうものです。
そういう意味では、宗教とは「安心とは何か」という話だともいえます。
No.548) 杞憂と同じ? エリー(Mon Dec 27 02:23:24 2004)
 空は落ちてこない。だから不安など存在しない。そんな感じかしら?
 でも「私は空が落ちてくる気がする。とても不安」と言われたらどうするのでしょう。
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 母親が用意した服が気に入らないとしても「こんなの嫌だ」と私は言えなかった。折角用意したのに拒否されたら嫌だろうと思うから。
 でも自分が母親になって「嬉しくないのに黙って受け入れる方が嫌だ」と知りました。もし「こんなの嫌だ」と言われれば文句のひとつも出るでしょう。でもそれと嫌いになることは別です。
 嫌いでないことを証明するために「文句の一つも言わせない」と関係は行き詰ります。「ケンカするほど仲がいい」とはうまいこといいますよね。私と娘は本気でケンカしているのですが、第三者が見ると微笑ましく映るそうです。
 この場合は「ケンカしてもやり直せる」が「安心」なのかもしれません。
No.549) 「不安」と「宗教を意識する時」 風花(Mon Dec 27 11:04:48 2004)
 二つの話題に,一回の書き込みで対応しようとしています。
 混乱しちゃうかな・・・。
 できるだけわかりやすくまとめるつもりですが。
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 わかりやすく,少し例を限定して書きますと。
 不安と安心という言葉については。
 例えば「空が落ちてくる気がする」とことが「不安」だとして,「空は落ちてこない」と納得しない限り「安心」にはならないと思います。
 空が落ちてくるかもしれないので,「いつ落ちてきても良いように,その時その時の時間を納得出来るよう過ごす」というような解決法は,私の言い方では「不安を(持ったまま)受け入れる」というような表現になります。
 これも「安心」と表現するのがエリーさんの言葉の使い方かな,と想像しています。
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 宗教を意識する時についてですが。
 私はあまり「宗教」という言葉そのものを意識することはないですね。それこそ宗教団体の勧誘とかが家に来る時ぐらいで。
 ただ,「宗教」という言葉そのものでなく,生きることについての考え方とか,そういうことであれば,他人との会話の中などでもよく意識します。
 つまり「自分と異なる考え方に触れた時」とでも言えるでしょうか・・・。
No.550) 変化と不安 エリー(Mon Dec 27 20:40:49 2004)
 具体的に何かに例えて話してもらえると、私にはとても分かりやすいです。
−−−
 空は落ちないと納得することがキリスト教的なら、落ちてもいいように過ごすのは仏教的に感じます。そうすると私は仏教的ですね。証明を求めるより、自分の行動で解決しようとします。
−−−
 生きていると感じるのは、異なるものに触れた時というのは納得です。旅という非日常で綺麗な景色を見た時も、繰り返される日常の中でキンモクセイの香りに秋を感じた時も、自分が生きていることを感じます。呼びかけて反応がかえってきたり、変化が起こる時に感じるのかもしれません。
 変化や異なるものは不安を感じる対象です。でも、それがないと生きている感じがしない。なんだか不思議な関係ですね。
No.539) 毎度毎度返事が遅れてしまいますが・・ iwatam(Wed Dec 22 22:56:05 2004)
毎度毎度返事が遅れてしまってすみません。
なぜ返事が遅れてしまうのかというと、言いたいことをみな代弁してくださっているからです。
何か新しいことを言おう・・と思っても思いつかないので、毎度「風花さんの言うとおりです」と書くことをお許しください。ついでに、コメントがエリーさんに対するものになってしまうのもお許しください。
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宗教は実は同じことを言っているというという話は、私は半分賛成です。といっても本当に同じことを言っているわけではなく、一つの真理にいろいろな角度から光を当てて、それぞれが違った方向から違ったように見ている、といったほうがより言い得ていると思います。
No.540) 構造主義? エリー(Fri Dec 24 12:17:07 2004)
 部分と全体、同質性と差異、物質と動作など、扱う対象は違うけれど、「宗教」という一つのクラスだと私は思います。
オブジェクト指向の本は読んだことがあるのですが、構造主義はこれから読むところです。
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 もし想像が正しいなら、iwatamさんが宗教クラスを記述するとどうなるのかしら?
No.551) すみません、お答えがまだでした iwatam(Tue Dec 28 23:23:34 2004)
なんか質問とは少しずれてしまっていますけど、宗教はクラスではなくクラス図だ、というのが私の回答ということでお願いします。
No.537) 時間的変化? エリー(Tue Dec 21 23:10:02 2004)
iwatamさんへ
 「慣れて忘れてしまう」や「失敗して自信をなくす」という問題に気づかなかったから違う意見に思えたのでしょう。それなら「消臭剤そのもの」という表現に納得です。
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