iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

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No.789) 『ゲームとは何か』について。 kuon[HOME](Thu May 19 22:06:25 2005)
こんにちは、iwatamさん。いつも楽しく拝見させていただいています。

今回、すこし考えている点があるのですが、
iwatamさんは『ゲームとは何か』というコラムで
ゲームの言葉の意味という点において、ゲームとは
>・相手との勝ち負けを争う。相手に勝つことが目的である。
と定義なされていますが、これが私にとっての悩みの種なのです。

例えば、シムシティのようなゲームには勝つという要素が
特に取り立てて見当たらないような気がするのですが、
このようなゲームはゲームとして認められないということなのでしょうか?

製作者のウィルライト自身がシムシティを玩具だと公言しているので、
確かに、ゲームではないのかもしれませんが。
なんだか、私からすると、シムシティもゲームの一種かなと思えてしまうのです。

他にも魚を見るようなアクアノートの休日もゲームではないのでしょうか?
iwatamさんはこのような自称『ゲーム』こそがゲームをダメにしたとお考えでしょうか?

ゲームの可能性を問うために、これらのゲームはあえて勝ち負けをなくしたような気もするのですが。
確かに、iwatamさんのおっしゃるようにゲームがゲームを見失った要因とも考えられますが。

私は遊戯(遊び)とゲームの境目がうまくつけられないでいるのかもしれませんね。
なんだか、書いているうちにiwatamさんの意味もより理解できたように思えます。

いつも楽しくて、素晴らしいコラムの方、ありがとうございます。
ゲームの方のコラムもたまに書いていただけると、うれしいです。
当方、非常にためになっており、一介のゲーム好きとしてうれしく思っています。

では、このあたりで。ありがとうございました。

No.790) ゲームでなくてもダメなわけではありません iwatam(Fri May 20 01:22:04 2005)
その通り、シムシティもアクアノートの休日も私はゲームとして認めません。
ただ、こう言うとよく勘違いされるので付け加えます。
ゲームとしては認めませんが、「ゲームでないからダメだ」と言っているわけではないことをご理解ください。ゲームでなくても面白いものはたくさんあるはずです。
シムシティは、作者自らが言っているように、ゲームでないことをわかっていて、ゲームにはない面白さを付け加えています。だから面白いものができたのだと思います。
一番の問題は、ゲームとして面白かった傑作に、ゲームでない要素をゴテゴテつけた続編を出すメーカーです。つまり、それがなぜ面白かったのかを理解できず、面白かった要素をスポイルして、下らない要素を付け加えて、とんでもない駄作に仕立て上げることです。
自称『ゲーム』がゲームをダメにしたのではなく、自称『ゲーム』と本物のゲームの違いがわからない人間がゲームをダメにしたのだと思っています。だから、私の目的は本物のゲームを広めることでも自称『ゲーム』を撲滅することでもなく、両者の違いをはっきりさせることです。
No.782) No.682からの一連の流れ(特にNo.712)について 風花(Wed May 18 17:18:38 2005)
一月も前の話題なので,とっても今更感・・・。

ただ,読んでみたところ最終的にやりとりが完結してないように思えたので,私なりにまとめてみました。
蛇足になるかもしれませんので,そのときは私の読解が足りないのだとお叱りください。

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では,No.712より抜粋

では、まとめますね。なお私は、紅井林檎さんが一般的だとする定義ではなく、iwatamさんの言っていることに基づいて話を展開しています。そこに注意してください。
/
さて、利己主義には以下の2種類があります。
/
バカな利己主義・・・自分の利益を最大限に保つ。他人は関係なし。
利口な利己主義・・・自分と他人の利益を最大限に保つ。すなわち功利主義。
/
ここで“利口な”というのは、応報の原理に従っていることです(ゲストブックより)。
また、以下も成り立つはずです(サトーが発見)。
/
バカな利他主義・・・他人の利益を最大限に保つ。自分の利益は関係なし。
利口な利他主義・・・他人と自分の利益を最大限に保つ。すなわち功利主義。
/
このように、利口な利己主義も利口な利他主義も功利主義となりますから、両者は同一です。
すなわち、応報律に基づくならば(利口ならば)、利己主義も利他主義も同じとなり、区別が無意味になります。
/
このようにして、「コラム:利己主義のすすめ」は破綻します。
/
引用終わり
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ここから,いろんな論が展開されてますが,私は「利己主義と利他主義も利口であれば功利主義であり,区別が無意味」=「コラム「利己主義のすすめ」は破綻」という結論部分が違ってるのだと思います。

何故かと言いますと,私はコラム「利己主義のススメ」の趣旨を「『利己主義であるよりも利他主義であるべきだ』という考えを否定する」ものだと読んでいるからです。
これは,「利他主義であるよりも利己主義であるべきだ」と証明しなければいけないわけではなく,「利己主義も利他主義も差はないから,特段利他主義を強要する必要はない」とさえ言えればいいのだと解しています。

つまり,「利己主義も利他主義も同じとなり、区別が無意味に」なるなら,コラムの言わんとするところに沿ってると思うのですが・・・。

どうでしょうか。

No.784) もう時効だと思いますので iwatam(Thu May 19 01:23:29 2005)
すみません。ページが変わってからこの話は放置状態になっていました。(一応、ここでは言えないある理由によります)

あなたの「読み」については、おそらく私の言いたいことが伝わっていると思います。なのでここではそれについて詳しく言うのはやめます。一つ認識が違うとすれば、この論のどこが違っているかです。
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まず、「応報の原理」について。
これを「自分が相手のために善い事をすれば、相手も自分に善い事をする」としましょう。
これが成り立つには前提条件があります。一つは、相手もまた利己主義であること、そして相手もまた応報の原理を認めていることです。つまり、応報の原理そのものが利己主義が存在することを仮定しています。ですから、利己主義の存在を否定するための論法として使うのはおかしいのです。
つまり、コラムで私が言ったのは、「全員が利己主義者でも、応報の原理を認めるならば相手の利益も考えて行動する」ということです。
相手が利他主義であれば、善い事をしなくても自分に善い事をするので、応報の原理があっても利己主義者は相手に善い事をする必要がありません。ですから、利己主義者は利他主義者に対して善い事はしません。こうして、善い事は利他主義者から利己主義者への一方通行になります。だから、利他主義者がいくら利口でも、自分の利益は大きくなりません。
ではもし全員が利他主義者だったらどうなるか。この場合については、紅井林檎さんが書いておられます。利他は利己の存在なしには存在できません。利己がない場合、利益の概念が存在しなくなってしまうので、利他もまた定義できなくなってしまうからです。
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上で書いたように、私のコラムの結論は「全員が利己主義者でも、応報の原理を認めるならば相手の利益も考えて行動する(=利己主義であってよい)」というものですから、これを否定するには「全員が利己主義者で応報の原理を認めていても、相手の利益を考えて行動するというわけではない(=利己主義であってはいけない)」を示さないといけないわけです。
これ以外の何を言っても、それは私のコラムとは無関係な何かを述べているにすぎません。
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ついでに「区別は無意味」の話をしますと、「区別」の「意味」は、観点があって初めて成立するものです。つまり、区別は客観的に存在するものではなく、人間が「する」ものです。
人間が何を言いたいかによって、区別は意味を持ったり無意味になったりします。ですから、何を言いたいのかをまず明確にしないと、区別が無意味になるとは言えないはずなのです。
ここでおそらく多くの人が「何が言いたいのかわからない」と感じたのだと思います。

No.785) 利他主義者とは? 風花(Thu May 19 12:30:50 2005)
ちょっと脱線します。

「利他主義者」というのは,どういう人でしょうか。

------引用------
利他は利己の存在なしには存在できません。利己がない場合、利益の概念が存在しなくなってしまうので、利他もまた定義できなくなってしまうからです。
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というのは,利他という考え方,利己という考え方のことではないですか?
私の考える利他主義者は「利己」という考え方を理解することができます。どのように行動すれば,「利己」に繋がるかもわかっています。でも,それを自分の行動決定の基準にしないということだと考えます。
つまり,利他主義者だけの集団においても,「利己的な考え方」そのものがなくなるわけではなく,利益の概念もなくならないのでは?

このような考え方のもとでは,全員が利他主義者だった場合,自分自身の利益のことには無頓着でも,周りの人間が勝手に自分のことを「利益ある状態」にしてくれます。
結果,自分も周りもともに「利益ある状態」になります。

ということになりませんか?

No.786) ずっと気になっている点なんですが エリー(Thu May 19 15:08:36 2005)
 風花さん、お久しぶりです。エリーです。
 ちょうど迷っている部分だったので、割り込みさせてもらいます。
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 問題は「心」だと思うのです。自分で「私はこれを望む=利益となる」と感じることが出来るという前提がなければ、利己主義は成り立ちません。恐れや不安に支配されている場合、自分が感じることを肯定出来ない状態にあります。どうなるのか? 「他人が良いということ」を肯定すると思います。
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 心は目に見えません。お菓子をご馳走になって、本当は美味しくないのに、気を使って「美味しい」と答えた経験は誰にでもあると思います。相手を不快にさせても本当のことを言った方がいいのか、心遣いに価値を置くかは状況次第ですが判断が難しいですよね。
 例えば、「美味しい」を本心だと思って、訪問のたびにお土産に持ってきてもらう。こうなると「本当は好きではない」とは言いにくくなります。あまり親しくない関係だと特に困りますよね。
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 「嫌われたくない」という価値観を持つ場合、不快にさせないのは「利己的な行動」と言えると思います。けれど嘘をついたが為に美味しくないものを食べなくてはならない状況になった時、それは「利他的な行動」と言えないでしょうか?
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 思い通りに利己的に生きるのは難しいです。権威や好意から自分を曲げる時、それは利他的と言えるのではないでしょうか?
 皆さんは「お互いにあわせているつもりで誰も楽しくない状況」を利己・利他どちらだと考えますか?
No.788) 行動と意図 風花(Thu May 19 16:00:38 2005)
こちらこそお久しぶりです。
私は,行動と意図(心)を分けて考えた方が良いかな,と思います。
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お菓子をご馳走になって、本当は美味しくないのに、「美味しい」と答えるのは行動です。
どういう意図でこのような行動を取るでしょう。
利己主義の人なら,「美味しい」と答えることが自分の利益に繋がると考えたからでしょう。
利他主義の人なら,「美味しい」と答えることが他人の利益に繋がると考えたからでしょう。
----引用します----
「嫌われたくない」という価値観を持つ場合、不快にさせないのは「利己的な行動」と言えると思います。けれど嘘をついたが為に美味しくないものを食べなくてはならない状況になった時、それは「利他的な行動」と言えないでしょうか?
----引用終わり----
嫌われたくないという価値観を持つ「利己的」な人が美味しいと答えることで嫌われることを避けるという利己的な考えに則っているなら,その先延々と美味しくないものを食べ続けるとしても,「嫌われない」という自己の利益は確保しています。
もしかしたら,相手は自分のことを嫌いたいと思っているかもしれませんが,利己的なので自分の都合で「嫌われない」ようにします。
これがたまたま他人の利益になったとしても「利己的な考え」に基づいた行動です。
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つまり,「利己的な行動」「利他的な行動」というのは,行動そのものから判断されるのではなく,どういう意図でその行動をしたかによって判断されるもので,たとえ行動内容は同じものであってもその行動の主が「利己主義」か「利他主義」かは異なる場合があると思います。
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権威や好意から自分を曲げる時も,「それが最終的に自分の利益になるから」そうするのか,「それが最終的に相手(他人)の利益になるから」そうするのかで利己になる場合もあるし,利他になる場合もあると思います。
「お互いにあわせているつもりで誰も楽しくない状況」は,「お互いにあわせている」というのが利他的な意図に基づいて行動していると意味だとすれば,利他的でしょう。ただ,相手の利益になると考えた行動が,実際には相手の利益になっていない(行動が失敗してる?)状態だと思います。
No.791) 何となくしてしまった行動は? エリー(Fri May 20 10:01:59 2005)
 本当ですね。行動と意図を分けて考えるとはっきりしますね。
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 意図から行動を選択する場合、自覚的な行動と言えます。では行動から意図を推測された場合は?
 日常、「意味のない行動」は頻繁に起きます。相手がそれをどう解釈するかは、行動した人の思い通りには伝わりません。「どういう意味なの?」と聞かれても、意図がある訳ではないので答えられません。魔女裁判同様に、「意図はなかった」と証明するのは不可能に近いと思います。
 そういった「無自覚な行動」をどう考えますか?
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 もう一つ、私たちは違う個性を持つ同じ人間です。「私しか思わないこと」もあれば、「多くの人が思うこと」もあります。自分しか思わないことを実行すると「利己的」と非難され、皆もそう思っていることを実行すると「利他的」と言われるような気がします。
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 この時、私が思っていることを相手も思っているなら利己と利他は対立しません。問題になるのは対立する場合です。どちらの希望を優先するかで利己主義者か利他主義者に分かれるような気がします。感覚としての区分です。
 だから利他主義者が利己主義者を非難する時よく聞く言葉は、「人としておかしい」「非常識だ」というものです。皆に迷惑がかかることを非難されます。個人的に合わせることが辛くても、「多数派になれ」と求めてきます。
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 でも習慣や常識が必ずしも現実に適っているとは限りません。あわなければ新しいルールが必要になります。
 「こうした方がいい」と理想を持って行動する場合、結果としてどうなるかはともかく善意からの行動だから本人は「利他的な行動だ」と言うでしょう。もっとはっきり「正義」を掲げるかもしれません。
 しかし「最終的に誰の利益になるか」を問題にするなら、「意図としては利他だけど、最終的には自分の利益になる行動」と「意図としては利己だけど、最終的には自分を含めた多くの人の利益になる行動」があります。
 この場合、前者ほど迷惑なものはありません。でも主張している当人は、「個人の感情より皆の利益を優先するべきだ」と言うのではないでしょうか? それを「それはあなたの希望であって、私は望まない」とはっきり否定することが出来るでしょうか?
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 結果が出てしまえば、「それはあなたの理想で私は望んでいなかった」と言えます。しかしこれから起きることに対して、必ず意図的に選択出来るとは限らないと思います。
 私にはイラク戦争がいいことか悪いことか判断がつかなかった。戦争は嫌だと思う。でも「攻撃されたらどうするのだ?」と不安を煽られると迷う。決断する立場にないから傍観出来たけど、決断出来なかった以上結果を見て「イラク戦争は間違いだった」と他人事のように非難するのはずるいと思う。
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 イラク戦争がおきてからずっと「自分がどうして戦争に反対するのか?」を考え続けました。その結果、「日常が破壊されるから戦争は望まない」という答えになりました。たとえ攻撃される不安を感じても、先制攻撃してしまえば反撃されて日常が破壊されるかもしれません。だから攻撃しないで解決することを望む。
 そうやって意図がはっきりした後なら行動を判定出来ると思う。自分の利益の為に「関りあってトラブルに巻き込まれるのは嫌だ」と傍観するか、「自分には何の力もない」と知りつつそれでも反対表明をするかが問われます。
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 前者は意図としては利己ですが、結果としては自分の希望とは反対の人々の利益になります。後者は意図としては利己ですが、最終的にはどちらになるかわかりません。
 戦争という手段をさけて外交で解決出来たなら自分の利益、解決出来ずに戦争に突入して攻撃を受けたなら「日常を守る」という自分の利益を確保することは出来ません。でも「どうなるか分からないから」と旗色を鮮明にしないことで自分の生活を守ろうとすれば、戦争をしたい人の利益になってしまう。だから自分には何も出来ないけれど、意思表示だけはしようと思う。
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 という理由で、私は「無自覚な行動は利他的である」と考えます。そして「利口な=自覚的な」と解釈しています。それでNo.738で「強制力」というキーワードを使って利他と利己を考えてみました。
 でも心は見ることが出来ません。自覚を持ってしたことなのか、習慣としてしているのかはっきり区別出来るでしょうか?
 習慣自体が心地よい場合、意図の有無は問題にされないと思います。意図で分類出来ない時、「どちらでもない」になるのでしょうか? それとも行動で分類されるのでしょうか?
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 ここまで書いて分かったのは、私の感覚では「多数派=利他」、「少数派=利己」ということです。少数派意見の場合、自分が言わなければ代弁してくれる人はいません。多数はなら言わなくても自分の利益になります。
No.792) 行為とその成功・失敗 風花(Fri May 20 13:00:55 2005)
「意図」で利己と利他を分ける場合,行動の成功・失敗の判断が異なってくると思います。
「利己的」な意図を持って行為を行い,それが自分の利益を与えるように働いた場合,それは本人にとって成功です(他人の利益になったかどうかは関係ない)。
もし同じ行為であっても利他的な意図を持って行った場合であれば,自分の利益になるかどうかは関係なく,他人の利益にならなければ,それは本人にとって失敗になります。
ただし,この評価はあくまで「本人にとって」でしかありません。
本人以外は行為だけを見てその人が「利己主義」か「利他主義」かを判断することはできないと思います。
本人以外には,その行為の結果が「誰の利益になったか(あるいは,誰の利益になりそうか)」ということです。
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つまり,「意図」と「行為」だけでなくそれに対する「評価」も分けて考えるというようなスタンスでしょうか。
「行為」は,その行為の主体の意図に関わらず,結果として「自分と他者の利益になる」「自分だけの利益になる」「他者だけの利益になる」「自分にも他者にも利益にならない」と評価され得ます。
例えば行為をする本人が利己主義な人間で,自分の行為の結果がいつも「他者だけの利益になる」ことに対してずっと失敗だと思っていたとしても,行為だけを見れば他人には「利他主義」に見えてしまうかもしれません。
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そのような意味づけで言えば,「無自覚な行動」は本人にとって利己主義にもとづくものでも利他主義にもとづくものでもありません。「どちらでもない」になると思います。
ただその結果として「誰かの利益になる」ことがあるだけです。
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エリーさんが気にしてることの一つに利他主義者が「他者の利益」になると思ってやっている行為が,本当に他者にとって利益になるのかということがあるのだと思います(違ってたらすいません)。
これは突き詰めれば,「その行為の結果どうなると考えているのか」という問題と,「利益とは何か」というような問題になると思います。
結果予測にズレがあるだけなら,話し合いなどでズレを修正すればいいのですが。
何を持って利益とするかについてはもう少し難しいと思います。
利己主義者の言う「自分の利益」は,本当に当人にとって利益になっているのか?
「利益」というのは主観的なものなのか,客観的なものなのか。
というような問題があるかと思います。
つまり,「ある人の望む結果がその本人にとって利益になっていない。むしろその人の望んでいないところに利益がある。」と利他主義者が考えて行う行為は,周りの人にとっては「迷惑に思いながらも(利他主義者がその人にとって利益だと考えている)利益を得る(押しつけられる?)」となります。
このような状況を「利他」と呼ぶかどうかということではないでしょうか。
これを「利他」と呼ばないのだとすると,「利他主義=他人の言いなり(強制力)」という感じになるのかなと思いました。
逆に「利他」と呼ぶなら「いらぬおせっかい」=「利他」になると思います。
No.793) 利益とは iwatam(Fri May 20 18:54:51 2005)
私が言った利己/利他は、そもそも「利益とは何か」という話です。
利己主義では、「(自分の)利益とは、自分が利益だと思うものである」という定義です。
利他主義では、「(自分の)利益とは、他人の利益の総和である」という定義です。
前者は結局何も言っていません。ただ、自分が利益だと思うものが何だかよくわからないけ
れども存在すると言っているだけです。
そして、後者の定義だと、全員が利他主義者だったら定義自体が成り立たなくなるというこ
ともおわかりになると思います。

そして、「客観的な利益は定義できない」ということも前提にしています。何を利益とするかは個人が好き勝手に決めることです。

No.794) 言葉の定義 風花(Fri May 20 22:48:54 2005)
利己/利他という言葉に対するイメージ(定義?)が、私とIwatamさんとでは違っていたようです。
私のイメージでは、「客観的な利益は定義ず、何を利益とするかは個人が好き勝手に決める」とするなら、利己主義でも利他主義でも「(ある人にとっての)利益とは、その人自身がその人自身にとって利益だと思うものである」という感じです。
その前提の下、利己主義は「自分の利益」を優先する考え方、利他主義は「他者の利益」を優先する考え方です。
利他主義の場合、「他者が何を利益だと思っているか」を認識する必要があります。
この認識が独りよがりで間違っていれば「おせっかい」「ありがた迷惑」となりますし、間違うことを恐れすぎると他者の言いなりになったりすると思います。
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Iwatamさんの定義で話を進めれば、「全員が利他主義者だったら定義自体が成り立たなくなる」となるのは理解しました。
No.796) 堂々巡り iwatam(Sat May 21 01:30:44 2005)
AさんとBさんの2人が利他主義だったとしましょう。
AさんがBさんの利益になることをするときには、Bさんに「何があなたの利益ですか?」と聞かなくてはなりません。そうしないとBさんが何を利益だと思っているかがわからないからです。
しかし、Bさんにとってみると、これをそのまま答えることは自分の利益のための発言であり、利己主義になってしまいます。Bさんが利他主義なら、この質問には自分の利益を答えるのではなく、Aさんにとって利益になる答えをしなければなりません。
しかし、それはわかりませんから、Aさんに「その質問には何と答えてほしいですか?」と聞かなくてはなりません。
これは結局堂々巡りになってしまいます。
結局、何を利益とするかは個人が好き勝手に決める、つまり人が何を利益としているかは聞かないとわからないならば、このような堂々巡りになってしまいます。
No.797) 頭がこんがらがりそうですが、ほぼ納得。 風花(Sat May 21 06:02:05 2005)
あー、何か、わかりました。蒙が啓かれた感じ(^^;
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私の考えでは「何があなたの利益ですか?」に対してそのまま答えることが利己主義なのではありません。
「それに答えることが自分の利益になると判断し、その意図を持って答える」ことが利己主義です。
逆に「それに答えることが他者の利益になると判断し、その意図を持って答える」と利他主義です。
でも、Iwatamさんのおっしゃるように、「他者の利益が何か」がわからなければ、「利他という意図」をもって答えること自体が出来ないから「何があなたの利益ですか?」という疑問の堂々巡りですね(^^;
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「自己の利益」を度外視した、純粋な「利他主義」だけの集団というのは、「客観的に統一された利益」というものを認めるか、「他者の利益は○○だ」と勝手に思い込んでる人たちの主観の中か、というところでだけ存在するものでしょうかねぇ・・・。
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頭の中が、「利他とはどういうものか」というところから派生して、「利他(だけの集団)が存在するとすれば、どういう状況が想像できるか」という方向に流れています(^^;
No.781) 成果主義 アムロ(Wed May 18 09:32:23 2005)
成果主義のコラムをおもしろく読みました。成果主義を導入した企業の多くが失敗しているという話は確かによく聞きます。
そもそも成果主義をコスト削減の言い訳のために導入するケースが多いので、失敗するのは当然といえば当然で、道理にかなっていないやり方だということでしょう。

成果主義に対する私の考え方も少し書いてみましょう。
成果主義は、仕事の結果に対して報酬を出すシステムです。
そして能力主義はやった仕事に対して報酬を出すシステムです。
従来のやり方としては能力主義が主流でしたが、成果主義がもてはやされるようになってきて導入し始めた会社も多いということです。
しかし能力主義でも成果主義であっても仕事の結果について評価はしているはずです。どうして違いが生じるのでしょうか。

つまり能力主義では仕事の結果に対して直ちに金で報いるのではなくて、仕事の内容や質によって報いているということでしょう。
つまり今回良い仕事をしたと見なせば、次はさらに難易度の高い責任ある仕事をさせていき、それでさらに良ければいずれは昇格させる。そういう形で報いていたわけです。
これだと労務費という面からすれば必ずしもすぐに余計に金がかかるということはないので(もし余力がないとしても必ずしも金で報いなくてもいいから)メリットも大きいわけです。
つまりコラムの中にもあったように、能力主義では仕事に対して金を支払うというシステムのように見せて実際にはそこで仕事を続けるための代価を支払うという意味合いが強いので、やめない程度に支払っていればとりあえずは大丈夫という一面があるからです。
しかし成果主義だと結果に対しては直ちに金を支払わないといけないので労務費という面では当然ながら余計にかかることが予想されます。
もし結果を出しているのに金を支払わないという事態になると成果主義はそこで破綻するわけで、本来の成果主義では企業側としてはたいへん大きいリスクを背負っているということになるでしょう。

要は、仕事で報いるか金で報いるかという問題なわけで企業としては金で報いるよりも仕事で報いた方が無難だという考え方も成り立つのではないかと考えています。

もっとも成果主義が絶対にいけないということではなくて、業績が右上がりで成果主義を適正に運用できて、社員からも不満が出ない状態を続ける事ができるのであれば結構なことだとは思うのですが、これはたいへん難しいことでしょう。

No.783) コメントありがとうございます。 iwatam(Wed May 18 23:17:35 2005)
コメントありがとうございます。
私の考え方について、3点指摘させていただきます。

1)
私のコラムでは、「やった仕事に対して報酬を出す」というのは(最終的には)努力主義という言葉で表しています。能力主義は「仕事をやる能力に対して報酬を出す」であり、極端なことを言えば、仕事をしないでブラブラ遊んでいてもデキる奴には報酬を出すということです。そんなバカなと思われるかもしれませんが、研究職ではそうあってもおかしくありません。

2)
成果主義の場合、結果に対して金を払えないということは起きません。なぜなら、結果が出ているなら儲かっているはずだからです。結果とは、その仕事によってどれだけ金を儲けられたかであると定義すべきです。成果主義の利点は結果が客観的に出てくることにあるのですから。結果としてそれ以外の指標を使うと、おっしゃるような問題が出てくるでしょう。

だから、成果主義は営業職ではしっくりきます。営業が売り上げた分は必ずお金になるからです。いくらでも作っただけ売れる商品なら、製造工程でも同じことが言えるでしょう。直接お金に結びつかない仕事では成果主義を導入する意義はないと思っています。

3)
仕事の結果をお金ではなく他の事で報いるべきだというのはその通りです。そして、それは評価とは独立した話でしょう。つまり、仕事の評価に対して何主義をとるにしても、その結果に対してお金以外のことで報いることはできるわけです。ノーベル賞をとった田中耕一さんの話を思い出しました。
しかしこの話には一つ落とし穴があります。それは逆に「社員がお金以外のもので何かをもらったとして、報いられたと感じるだろうか?」という問題です。最近の風潮を見ていると、金以外の評価基準を持てないのはむしろ社員の方ではないかと思うのです。
つまり、今までは仕事で報いることで無難に回ってきたのに、社員が金以外のものを報酬として認識しなくなってしまったがためにこのような問題が起きたということです。

No.787) ははあ、なるほど・・・ アムロ(Thu May 19 15:49:54 2005)
1)の研究職の話は、普通の感覚ではおかしいですよね。
私の考えでは能力主義と努力主義の違いはあまりはっきりしていないような気がします。
研究職などの場合も確かに最初は何もしなくてもいいのでしょうが、いつまでも何の成果も上がらないとやはり査定されるでしょうから。
つまり能力の査定が補正されて結果が出ていないと能力を低く見積もられてしまうということです。となると 1)の不合理は是正されると思うし、現実にもそういうことがありそうです。

2)についてですが、金を払えないということは本来は起きないように思うのですが、実際には起きたりします。
個人レベルでは成績が上がっていても部署単位では結果が出ていないというときに部署単位での独立採算制を採っていると基準になる査定が低くなって、それに上乗せされるとしても成績の上がっている個人にまで結果としてはしわ寄せがくるような仕組みの場合にこういう事が起きます。
そうなると大変な不満が発生します。
これはシステム上の欠陥でしょうけど。

まあ、成果主義の場合は本来ならば労務費はよけいかかるのに、実はけちるための言い訳にしている企業が多いのが現実だからこういう事が起きるのでしょうが。

3)金以外で報いるべきだというのは成果主義の場合はやはり通らないでしょうね。
成果主義は金で報いるのであって金で報いないのは成果主義とは言えないでしょう。
金以外で報いるというのは、成果主義を言い出さない時代なら通用したように思うのですが・・・。

あなたのおっしゃる "それは逆に「社員がお金以外のもので何かをもらったとして、報いられたと感じるだろうか?」という問題です。最近の風潮を見ていると、金以外の評価基準を持てないのはむしろ社員の方ではないかと思うのです。
つまり、仕事で報いることで無難に回ってきたのに、社員が金以外のものを報酬として認識しなくなってしまったがためにこのような問題が起きたということです。"ということになると確かに問題ですね。
金以外のもので報いるというのは仕事で報いるのが普通の考え方でしょう。
それ以外にも人事面で報いるということがあるでしょう。
まあ、これはいろいろ意見の出るところで、金よりも自由な時間だという人もいるし、上記のような人も確かにいるでしょう。

でも今までは仕事で報いてきて、うまくいけばやがて昇格させるということでやってきたと思うし、私の感覚ではそれで納得できるのですが、それでは納得できない人が多くなってきたということでしょうかね。
おそらくは年功序列制に対する反発がきっかけだったのかなという気もしますが。
しかしあなたのいうとおりだとすると目先の事にとらわれすぎる人が多くなったということになるのでは・・・。

このあたりの問題が今回の成果主義についての最大の問題点で本質的な問題ではないでしょうかとも思います。
今度はこの切り口から議論すればおもしろいのではありませんか。

No.795) iwatam(Fri May 20 22:51:59 2005)
研究職の話は、一瞬おかしいように思いますが、近年では話はそう単純ではありません。
遊びと仕事の区別がだんだん難しくなってきているからです。
例えば、お得意様との接待ゴルフは遊びでしょうか、仕事でしょうか。
「成果」という言葉で目に見える部分だけを無理やり評価するやり方は、グレイゾーンのある問題に対処できず、結果的にこうした目に見えない成果を無視することにつながります。
個人レベルでは成績が上がっていても部署単位では結果が出ていないというのはこの問題の典型です。部署の成績が個人レベルの成績の合計だとすると、個人レベルで成績が上がっていれば部署単位でも結果が出ているはずです。出ていないとすれば、それは誰か他の人の成績が下がっているからです。だとすれば、成績が下がった人の分を削って成績が上がった人に回せばいいはずで、問題は起きないはずです。
この話は、部署の成績が個人レベルの成績の合計ではないときに破綻します。それは、部署の成績に、個人レベルの成績評価だけでは見えない隠れた成果があるときです。これは運用の問題ではなく、「成果が客観的に評価できないものに成果主義を適用するな」という問題になります。

金以外の報酬の話は、あなたの意見を見てふと思ったことですが、ここ(ゲストブック)で語るには少し深すぎる内容だと思います。また改めてコラムの方で考えたいと思います。といってもいつになるかわかりませんが……
面白い問題提起をありがとうございました。

No.826) アムロ(Sat May 21 19:14:41 2005)
"「成果」という言葉で目に見える部分だけを無理やり評価するやり方は、グレイゾーンのある問題に対処できず、結果的にこうした目に見えない成果を無視することにつながります。"というくだりはその通りですね。
しかし仕事というものはほとんどがそういうものですから、成果主義を導入しても良い仕事というのは極めて限られてしまうのではないでしょうか。
それと個人レベルでは成果が上がっているようで全体としてはそれほど上がっていないということは実際の仕事ではいくらでもあり得ます。
部署の成績が個人レベルの成績の合計になるという単純な職場は営業くらいしか思いつきません。また部署の中で成果主義を取り入れている部分とそうでない部分があったりしても単純にはいかないのです。
まあ、何でも成果主義とかいって取り入れるからそういうことになるわけです。
「成果が客観的に評価できないものに成果主義を適用するな」という問題に該当するケースも確かにあるでしょうが、全体としての成績は確かに数量的に評価できる場合もあるわけで、(独立採算制であれば収支がそれでしょう)そう単純ではないようです。
要するにそれだけ客観的な評価というのは難しい問題が含まれていて成果主義を導入しても不合理にならないという職場というのは限られてくるという気もします。
そもそも客観的という言葉の意味自体が本当にそうなのかという話も出てきます。
ある人にはそれが客観的評価だと思っても他の人にはそれが客観的評価ではないと感じることも往々にしてあるでしょう。

まあ、私が本当に言いたかった問題はあなたが言及していらっしゃるように、仕事の結果に対して金でしか報いることができないのだろうか、元々は直ちに金で報いるやり方ではなかったのにという点です。

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