iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

[ ゲストブック ]
こちらはゲストブックの過去ログです。閲覧のみ可能です。

編集や削除のご要望がありましたら個別にやります。遠慮なくおっしゃって下さい。


No.775) 絶対戦争をしてはいけないかを読んで のぞみ(Tue May 17 10:34:20 2005)
反戦運動がどういう意味を持つのかは、この際おいておくとしても、戦争がどういう意味を持つのかについて、北朝鮮の例を挙げていらっしゃる。
北朝鮮でクーデターが発生して民主的な体制に変わるのであれば、犠牲はあるとしても、確かによろしいでしょう。
しかしそれは戦争とは言いません。内戦とはいうかもしれませんが。
この場合、戦争というのは他国から軍事行動を仕掛けてくる事を意味しています。
反戦運動も何も北朝鮮国内で民主勢力がクーデターを起こすことを反対しているのだとは思いませんが。
しかしこれはまだ実際には何も起きていないので、実際に起きてしまったイラク戦争について考えると、あの戦争はあくまでアメリカ側の責任が大きく、悪と断言できます。アメリカはイラクに大量破壊兵器などないことを承知でフセイン政権を倒すことと大量破壊兵器石油の利権欲しさに戦争を始めたと考えられます。軍事的常識から考えれば別に諜報活動などするまでもなく、イラク側にまとまった戦力があるはずもないからです。
湾岸戦争の際にまだ保有していた兵器もその後は補充も修理用部品の入手も困難だったろうから、ほとんど使えなくなっていて、闇ルートから仕入れるにしても石油を押さえられていて、資金不足でとても武器を確保できていたとは考えられませんし、
大量破壊兵器などもってのほかです。
現実にもほとんどまとまった戦力など存在していなくて簡単に敗れ去っています。

アメリカ側には何もイラク国民をフセイン大統領の独裁から救うなどという気持ちなどあるはずもなく、その後の捕虜虐待やらテロやらでどう考えても戦争前より良くなったとは考えられません。
アメリカ側も全く当てが外れたことはわかっているでしょうが、今更引っ込みがつきません。
過去の戦争の歴史を紐解いてみても、大義名分をかざして戦争を始めるのが通り相場です。
となると少なくとも他国に攻め入る戦争はほとんどの場合は、欲に目がくらんで始める戦争であり、こういうのは巨大な暴力であり犯罪行為でもあり、悪と考えざるを得ません。

反戦運動の是非はともかくとして戦争自体にはほとんどの場合、正義はないと考えるのが妥当と考えますが、いかがですか。

正義をもって始めた戦争というのがそもそもあるでしょうか。正義のように見せても実際には裏があるというのが相場ではないですかね。

もっともあくまで戦争と内戦は別問題です。
例えば、アフガニスタンでは長年の間、タリバン勢力と北部同盟が割拠してきましたが、アメリカの介入でタリバン政権が打倒されて、一応内戦は終わりました。
こういうのはなかなか評価が難しいところですがアメリカの介入が悪と決めつけることはできません。イラク戦争とはすこし様相が違います。
別にタリバンが悪で北部同盟が善だとは言えませんが、少なくともタリバンは言ってみればイスラム原理主義勢力で(ものを考えない私の一番きらいなタイプです)ですからそれが打倒されたということは国民は束縛から解放されたという面があることは事実でしょう。北部同盟というのも決して一枚岩のものではないので、後で分裂してむやみな勢力争いを始めなければ良いなと思います。
もちろん内戦がすべて正義とは限りません。
国内の諸勢力が争い続けるとたいていは隣国からの介入があったりします。
レバノンとシリアの関係がそうでした。
しかしレバノンの内戦は何とか終結したもののシリア軍が未だに駐屯し続けています。
あるいは国境紛争が絶えないインド・パキスタンというのもありますが、これなどもばかげた紛争を続けているとは思いませんか。
まあ、何事にもよく考えて分析してみることが必要です。何事にも絶対はないというのは同感ですが。

倫理的な側面はとりあえずおいて、経済的な側面から考えると戦争を始めるということはとてもリスクが大きい行為で、しかも儲かるのはだいたいは産軍複合体だけという事実があり、戦場となる国の国民はもちろんのことそこに出兵する兵士たちも何ら利益はないのが現実でしょう。
下手をすると命を落とします。
特にイラクの場合は、海外から武装勢力が入り込んできて荒らしているのでなおさら犠牲を大きくしています。
私の考えではこういう事が理解できて予測できる人が反戦運動をするのではないでしょうか。何も考えない人は反戦運動なんかしないでしょう。
私は考える人が大好きですから。

まあ、反戦運動を批判する前に戦争についてもう少し掘り下げて考えてみるべきではないでしょうか。

No.776) 批判のしかたの問題 iwatam(Tue May 17 12:49:18 2005)
だいたいはおっしゃる通りです。しかし、私が何を批判しているのかが少々的外れになっている気がします。
私にとって、「戦争」は単なる例であって、本当に批判したいのは反戦運動ではありません。私が批判しているのは論理の組み立て方です。
そういう意味では、あなたのこの意見もあまり良いものとはいえません。「戦争反対」がまずあって、それに都合のよい論理を並べているからです。そして、戦争賛成につながる論理は書いてありません。このような論理の組み立て方について批判しているのです。
「戦争反対派も戦争賛成派もそれなりに主張はあるが、両者を天秤にかけると反対派の方に分がある」と言うべきです。
さらに言うと、こう論理を進めると「両者を天秤にかける」ことの難しさに気づくでしょう。この問題は難しい問題です。こうした真に難しい問題を放置して、視野の狭い主張ばかりするから問題なのです。
No.777) 私が言いたいのは・・・ のぞみ(Tue May 17 16:44:05 2005)
そもそも戦争賛成派という民衆は現代では私はあまり見たことがありません。
戦争を始めるのはどこの国でも一部の政治家と軍部、マスコミ、それに軍需産業などの一部資本家でしょう。
それに対して民衆の中から戦争賛成などと言い出すことは果たしてあるのかどうか。
あるとしてもそれは戦争賛成か反対かを天秤にかけた結果ではないでしょう。
ですから一般の民衆がまず戦争反対を基準に考えるのはむしろ当然ではないでしょうか。
それでも戦争賛成を唱える人は、私だったら「ではまずあなたが戦場に出て行って戦えばどうですか」と言いたいですね。
つまり戦争というのはそういう一面をあらかじめ持っているので、もし論理の組み立て方を論じたいのであれば戦争やら反戦運動ではなくて他のテーマにすべきです。

私は別に論理の組み立て方に対して疑問を投げかけたつもりはないのです。
むしろ戦争に対する認識自体がどうなのかを言っただけのことですから。
戦争というのは確かにたいへん難しい問題を含んでいますが、戦争賛成か反対かを天秤にかけるような考え方は、大変危険だということをまず言いたいわけです。
だいたい戦争に賛成すると言っても自分が戦場に出るわけではなくて、メリットがあるから賛成だというのでは、それは兵士を死地に駆り立てることに少なくとも荷担する事を意味するのだという自覚が必要なのではないでしょうか。
あるいは自国は当事者ではなくて他国同士の戦争に対して賛成だという議論もそもそもどうかと思います。
賛成だというのは、要するに殺し合いをしなさいよと言うことですから。
これは論理の組み立ての問題ではないでしょう。
それと私の話では戦争賛成につながる論理はないと言うことでしたが、そもそも賛成するような要素がないのです。
つまり戦争は破壊と殺戮を目的としていることがもっとも大きいでしょう。
しかし戦争で得られるメリットというものがないのかというと、一応はあります。
よくあるのが相手国の民衆を解放するという大義名分なのですが、このフレーズはだいたいはあくまで大義名分なのです。
今回のイラク戦争でもそれは明白でしょう。
だいたいイラクは平和な国であったのにアメリカがイランイラク戦争で武器を双方に供与して戦争を始めさせて、イラクに武器を持たせ過ぎたから、湾岸戦争で引っかけたわけで、さらに今回のイラク戦争でしょう。今更民衆の解放などと言っても信用する方がおかしいのです。
さらに石油などの利権を目当てに戦争をしたのだという見方もあります。
しかしそれは誰のメリットなのかを考えてみましょう。

私の言いたいことはわかりましたか。
仮に戦争賛成だとして戦争をしないことに比べてどれだけのメリットがあるのかどうかを考えるとして、さてそのメリットはいったい誰に対するメリットなのかが問題なのです。
たいていの場合、今回のイラクのような戦場となる国の民衆にメリットはありません。と言ってアメリカの国民にメリットがあったわけでもなく、メリットがあったのはせいぜい軍需残業だけでしょう。
内戦に他国が介入する場合もありますが、これはケースバイケースで、今回のアフガンでは一応はメリットがあったと見ても良いとは思います。

まあ、内戦自体やそれに介入するという形ではなく、いきなり他国に侵攻するような戦争の場合には、リスクは大きく逆にメリットはないか、一部だけに限定される場合が多いと考えられます。
ですから戦争反対を論じる人たちにはそれなりの根拠があって言っているわけです。

それを批判するのであれば、論理の組み立て方という切り口で論じるのはどうかと言っているのです。
やはりこれを論じるにはまずは戦争というもののある程度の分析が必要ではないでしょうか。

No.778) 私は戦争のことを論じているのではありません iwatam(Tue May 17 18:55:25 2005)
繰り返しになりますが、私は戦争のことを論じているのではありません。議論を論じているのです。ですから、戦争がいいか悪いかというのは私の論点ではありません。
だから、あなたが論理の組み立て方について疑問を投げかけたのではないならば、それは私とは関係のない話です。ここではなく別の場所で論じればいいでしょう。私は、戦争が是か非かを論じることはしません。
----
その上で、まず「戦争賛成などと言い出すことは果たしてあるのかどうか」といっていますが、9.11以降のアメリカの例などで明白なように、答えはYesです。
そして、「まずあなたが戦場に出て行って戦えばどうですか」という答えも、Yesと答える人も何人もいるでしょう。今の世の中で多くの国は志願制をとっています。それでもたくさんの人がそこに志願します。
そういう人がいることを認識できていないことが問題なのです。
No.779) 戦争の是非 のぞみ(Tue May 17 22:25:22 2005)
「ですから、戦争がいいか悪いかというのは私の論点ではない。反戦運動のことを論じているのでもない。議論を論じているのです」とのことでしたら、私の考えでは戦争をテーマして論じてはいけないのだと思います。
少なくともあなたの文章では戦争賛成とまでは言わないとしても北朝鮮の例で言えば北朝鮮の現体制を戦争により打倒する方が正義であるという見方をされると思いますよ。
だいたいテーマが「絶対に戦争をしてはいけないか 」であったのに戦争の是非を論じてはいないというのはおかしいのではありませんか。
私はその問いに対して「ほとんどの場合、戦争はしてはいけない」と答えたつもりです。
もちろん逆に攻められた場合に戦争はしてはいけないなどとは言っていられませんからね。
あなたの文章にはこちらが攻められたときにおきる戦争については何も語られていませんでしたが、こういうことも当然考えないといけないのです。ですから何事も絶対はないというのは私も同感なのです。
まあ、絶対はないと論じたかっただけなのであれば、それでも良いのかもしれません。
そうだとすると私も余計なことを言ったかもしれませんね。

それとアメリカ人が確かにイラク戦争に出て行ったのはもちろんわかっていますよ。
しかしそれは私も書いていますが別に論理を組み立ててどちらが良いのかを論じてのことではないでしょう。
まあ、個々人の事情はいろいろあるでしょう。
私は、自分で戦場に出た人を批判するつもりもないですし。私は少なくとも自分で戦場に出ないで戦争賛成を唱えたり、煽ったりするのはいかがなものか、無責任ではないかという意味で言っただけですから。

さて今のアメリカの軍への志願状況はご存じですか。さっぱり人が集まらなくなっているのですよ。
それは当然です。あれだけ無駄に人が死んでいるのを見れば誰だって志願しなくなります。
志願するとしたらほとんどは金に困っているか、市民権を得たい(市民権がなくても一定期間兵役があればなれる)人でしょう。
要するにアメリカ人もイラク戦争の愚かさに気づいたわけでしょう。

まあ、戦争を論じているのではないそうですから、これくらいにしておきますが。

No.780) そうですね iwatam(Wed May 18 09:19:02 2005)
テーマが「戦争をしてはいけないか」ではなく「絶対に戦争をしてはいけないか」になっている点、そして「絶対に」という言葉を問題にしている点、さらにはカテゴリが「政治」ではなく「発言」になっていることからもわかるように、発言について論じているのです。
なので、「私も余計なことを言ったかもしれませんね」というのはまったくその通りです。
そのくらいにしておいてください。
No.760) 主観的な立場からみた利己主義 エリー(Sun Apr 24 11:54:38 2005)
紅井林檎さんへ
 説明が長くなったので新規に投稿します。続きはゲストブックではなく、メールにしませんか?
iwatamさんへ
 長文を書いてもiwatamさんが迷惑でないなら、iwatamさんの意見も聞きたいのでこのままゲストブックに書きます。
---
 主観と客観は、文科系と理数系とも言えます。紅井林檎さんが書かれた「主観的意見」は理数系的なものだと思います。私は文科系的な方が得意なので、感情面(認識?)の例をあげてみようと思います。
 以下、追記された解説から想像して考えた設定です。トレードオフとステークホルダーはよく知らないので、解説文から得た印象で判断しました。「この部分が該当するのではないか?」という場所に括弧書きで注釈を挿入しました。
---
 受験生の少年Aは勉強をしなくてはいけない。勉強するのは辛いが、志望校に合格するのは嬉しい。目的があって進学したい気持ちが強ければ、勉強をすると思います。進学は強制されたものなら勉強は辛いものだと感じるでしょう。それでもともかく「受験に受かる」ことを目標に勉強することを選択しました。
 しかし、少年Aには受験以外に気になることがありました。少女Bに好意を寄せていて、彼女と話がしたかったのです。彼女のことを優先すれば受験勉強が出来ません。勉強だけしていれば彼女のことが気になります。しかし「受験に失敗した俺を彼女はどう思うだろう?」と考えると受験勉強をやめる訳にはいきません。
 大切な時期に上の空な少年Aを見て、彼の母親は心配します。母親にとって少女Bの問題は害しかありません。だから排除しようとするだろうと少年Aは考えます。自分の悩みを相談することは出来ません。しかし自分一人では問題を解決する方法が分かりません。
---
 応報の原理を適応するなら、「勉強すれば合格するとは限らないけれど、勉強しないよりした方が合格するだろう」と予想されます。しかし勉強だけしていては恋が成就しません(トレードオフ)。またそれを恋に関して利害関係がある母親には話せません(ステークホルダー)。受験に関して利害関係のあるクラスメイトにも話せません。
 もし恋をあきらめて受験勉強をしたのに不合格だった場合、少年Aはどう感じるでしょう。受験をあきらめて恋愛を取った場合はどうなるでしょう? どちらも得ようとしてどっちも失ったなら?
 「片方を選択して目的を達成する」という方法は一番取りやすい選択だと思います。でも両立するにはどうしたらいいのでしょう?
---
 「自分が望むことと周囲の期待」は一生なくならない対立関係にあります。女性なら「仕事と家庭の両立」が問題になります。いろんな場面で矛盾する二つの欲求を満たす答えを求められます。
 その時、「誰にとって利益になるように判断するか?」が利己主義の場合、「私」なのだと思います。習慣や道徳など社会的模範ではなく、自分がどう感じているのかに従う。反対に利他主義の場合は、社会的模範など自分以外のものを基準にするのだと思います。
---
 先ほどの例なら、「受験生だから仕方ないと恋愛をあきらめるのではなく、自分にとって励みになることだから勉強の妨げにならない程度に会う」など「行動の基準を自分で作ること」を「利口な利己主義」と言っているのだと思います。自分で決めたことなら、たとえ不合格や失恋する結果になってもいずれ納得出来ると思うからです。反対に社会的模範に従ったのに悪い結果が出た場合、納得するのは難しいと思います。
---
 利害という理性的な判断だけではなく、好悪という感情的な判断にも「利己主義のススメ」は適応出来ると思います。利害が功利なら、好悪は主体性の問題だと思います。
---
 客観的事情は「会社から見た場合、安価な労働力が欲しいが、消費力が落ちるのは困る」です。一人の人間は労働者でありながら、消費者であるからです。つまり、「どちらの立場にもなる事情」です。
 主観的事情は「私から見た場合、自分の主張を通したいが、他人の主張も聞かないと孤立してしまう」だと思います。先ほどの例でいけば、母親がどうしてそういったのか、自分が親になれば分かります。しかし子供でありながら親になることはできません。また、遊びに行く場所を海にするか山にするかは好みの問題なので、どれだけ時間が経っても相容れないでしょう。つまり、「どちらかの立場になる事情」です。
---
 「私は海に行きたい。でも山も嫌いではない」なら問題は起きません。しかし、「山に行くと虫に指されるので困る」という「選択出来ない事情」がある場合、「交互に希望を叶える(順番ね)」という方法は取れません。もし、相手にも「海にいけない事情」があればどうなるでしょう?
 日本と中国の関係も同じだと思うのです。歴史認識がずれる事情がある。歴史は一つなのに、感じ方が違うのです。
---
 どちらの立場も経験すれば、対立相手の主張を理解することが出来ます。しかし日本が中国になることはありません。「経験しない感情をどう理解するか?」が問われるのだと思います。それにはいくら「日本は謝罪した」と思っても平行線です。「中国には反日感情がある」という「事実の肯定」から出発するしかないと私は思うのですが、いかがでしょうか?
No.765) 主義=意思? ほげげん(Mon Apr 25 15:16:25 2005)
No.717) Administrator こと ほげげんと申します。
No.717)では、あまり人数が増えると議論がややこしくなるかと思い
匿名でおじゃまさせていただきました。

--
「受験生の少年A」の話ですが、
恋を選んでも勉強を選んでもどちらも利己主義なのかと思います。
今まで何度かでた意見かもしれませんが、
やはりそれを選ぶという意思をもった時点でいかなる理由も
利己主義につながってしまうからです。

「主義」というのは「意思」に直結している、また同じ物なのだと
私なりには考えています。
(この辺みんな同じように思っているかちょっと自信ないですが)
この考えから行くと「利他主義」という言葉は矛盾しているのかな
とも思います。

「受験生の少年A」の話に戻りますが、この場合「結果」を
どう見るかが問題なのかなと思います。
「恋を捨て勉強」→「恋できず合格」で後悔したなら
その時点では利他的(あくまで主義ではないです。利他行動とも呼べるのかな?)、将来良かったと思えるならその時は利己的でいいのかな・・・
極論はどっちでもないになってしまいます。

No.768) うまくいえませんが エリー(Wed Apr 27 09:11:03 2005)
 利他と利己を分けるのは、「親と自分は別の人間であると思えるか?」かもしれません。私にははっきり区別していないところがありました。子供の集まりで、一人が泣くとつられて泣き出す現象に近い感覚です。要するに「精神的に幼かった」のです(^^; 違うという自覚があればどんな選択であっても利己、自覚がなければ利他と分類しています。
---
 家族のルールが全てではないのに、「そうするしかない」と思い込んでしまう。
 この「選択肢が浮かばない」という問題は考え中なのではっきり結論を書けませんが、ほげげんさんのおかげで長年の謎が解けつつあります。ありがとう。
No.770) 利他は優しい ほげげん(Wed Apr 27 13:14:25 2005)
無意識から他人の利になる行動、ということですね。
この辺りが、これまで議論された主観と客観のギャップにはまって
しまうんでしょうね。
無意識から他人の利になる行動は主観では利他であると思います。
(無意識なのに主観てのも変な話ですが、ここはみんな同じですかね?)
客観ではどうなるのかいくつかパターンを考えてみました。
 ・利己である
 ・利他である
 ・利己でも利他でもある(功利)
 ・害己
 ・害他
 ・害己でも害他でもある(功害)
 ・誰にも利害は発生しない
 ※害己、害他、功害は私の造語です。うまく伝わるでしょうか?
  (こういう意味の言葉が思いつかない。。)
客観全パターンともにそう見えたなら、それは全て正しく思えます。

感情的な事を言ってしまいますが、
利他的行動は好きです。日常の中で見る利他的行動の多くは
「優しさ」という感情要素を持つからです。
(逆に利己的行動の多くは「優しさ」という感情要素を持っていない。)
しかし、利害の勘定をした上での利他的行動はとりたいと思いません。
つまり「優しく」ありたいのです。
「利口な利己主義」は私なりに「優しい利己主義」と受け取りました。
(「優しさ」とか、「利害の勘定」とか結構つっこまれそうですが、感情的な意見なのでどうかご容赦を)

No.771) 悪意と好意 エリー(Thu Apr 28 17:16:03 2005)
 「害己、害他、功害」は「悪意」と解釈しました。自分を憎むか、他人を憎むか、全てを憎むかでしょうか?
 それなら「利己、利他、功利」は「好意」かしら? 自分を愛する、他人を愛する、全てを愛する?
---
 「悪意にどう対処すればいいのか?」も悩むけど、「好意は分かるけど迷惑」という場合も困りますよね。自分の主観だと気づかないと相手を困らせる。
 好きという自覚はないけれど、子供がままごとするのは母親が好きだからだと思います。自分がしたいことがないから人がやっている面白そうなことを真似する。でも真似だから微妙に違ってしまう。
 子供なら誤解や失敗をしても許されるけど、大人だと許されない。優しくあるのって難しいですね。真似する側でも、誤解を許す側でも、同じくらいに難しいと思う。
---
 話は変わって、受験生Aの場合の続きです。
 「他の選択肢が浮かばない」為に従ったのなら、その子供の選択は「利他的である」と言えると思います。はっきり将来像を持っている子どもは少数派だと思います。そういう意味で「子供は利他的な存在である」と言えるのではないでしょうか?
 大人になって「他の選択肢もあったけれど、親が言ったとおりにして良かったな」と思えたなら、時を経て「利己的な選択」に書き換わったのだと思います。「親がすすめた理由を理解し、その結果に納得した=自分の選択として受け入れた」のだと思う。
---
 最初の話に戻ります。自分が「面白そう」と思ったなら、それは他人が始めたことでも利己的な選択だと思います。「皆がよいと言うから」という理由なら、自分が始めたことでも利他的な選択だと思います。
 そう考えると「害意」というのは、自分がして欲しいことを「あなたにとっていいことだから」とすすめることなのかもしれません。
---
 感情の変化を書くのがシナリオだと思うので勉強中なのですが、悪意を持ってしたことを好意に感じたり、好意を悪意と誤解したり、感情の問題は難しいですね。
---
紅井林檎さんへ
 私は真似して困らせたことがあるので、神経質になりすぎていたのかもしれない。
 以前の書き込みで小説を書いていると知って、私もシナリオの勉強中なので創作のお話ができたらいいなと思いました。主観と客観の続き、「一人称と三人称の違い」などお話しませんか?
No.772) 紅井林檎(Fri May 13 16:59:36 2005)
エリーさん
お久しぶりです。PCが壊れてしまいネットに
長いことレスることが出来ませんでした。
返信が遅れてしまったのはごめんなさいです。消耗品とはいえ
6年も連れ添ったPCが壊れてしまうとなかなかさびしいもので
なんともいえない空虚な気持ちになってしまいました。

さて、主観的なところから見た利己・利他のお話ですが
実は前に利己・利他の書込みをしたときには、
頭の中に「利己的な存在」と「利他的な存在」を思い浮かべながら書いていました。
利己的な存在を探すのは簡単でした。「自分」をそのまま思い浮かべればいいのですから。
じゃ利他的な存在は?といわれるとこれも案外近くにいるものです。
利他的な存在とは、それはずばり「道具」。
実はあの書き込みは「自分」と「道具」の関係を頭の中で思い浮かべながら書いたのです。
「自分」は常に「自分」のためにせっせと利潤活動を行います。
自分がさらに利益を得られるようにがんばります。
しかし、「道具」は常に「自分」を使う「他人」のためにせっせと利潤活動を行います。
他人の利益のために自分が磨耗しようが、壊れようがお構いなしです。
ちょうど自分の壊れたPCなどはそうだったのかもしれません。
6年間ずっとがんばってくれていましたが、それは自分の為にがんばったわけではありません。
俺の為にせっせとがんばってくれたのです。俺に利益をもたらすために
自分の磨耗を省みずがんばってくれました。
この行動こそが「利他的である」と言えると思うのです。

人は「自分の心」に従う限りどこまで行っても「利他的」になることは出来ません。
なぜなら「生きている」からです。「生きる」ということはもっとも原始的な利己的行動です。
また、自らの心に従って死を選ぶ「自殺」は究極の「利己的行動」なのかもしれません。

エリーさんの例ででてきた少年も、例え答えがわからずに他人に従ったとしても
それは利己的行動だと思います。なぜなら自分の心に従ってその結果を出したのでしょうから。

>感情の変化を書くのがシナリオだと思う
もう一つ付け加えるならば、情景の変化もシナリオには大事な要素だと思います。
情景から感情を表す…というのもまたシナリオの面白いところなのかもしれません。

>主観と客観の続き、「一人称と三人称の違い」などお話しませんか?
興味のある話題です。ぜひお話しましょう。

No.774) 大変でしたね エリー(Mon May 16 18:43:08 2005)
 パソコンって擬人化して感情移入しやすいものですよね。事務的な問題だけではすまないものがある。心中お察しします。
---
 今ちょうど映画の特徴を調べているところなんです。視点の問題と関係があります。要点がまとまったら投稿させていただきます。
---
 この投稿が書き方に迷っていた部分にヒントを与えてくれました。まとめるまでちょっと待ってくださいね^^
No.743) 設計についてのリクエスト 紅井林檎(Thu Apr 21 20:20:16 2005)
iwatamさんへ
「ソフトウェア開発の落し穴」全て読みました。かなり大変でしたが、有意義なリソースだったと思います。
ただ、読んでいてちょっと気になったのは
設計について書かれていないことでした。
「分析フェーズ」にのことまで、書かれていたのでせっかくなら
「設計フェーズ」のことまで書いていただきたいと思います。
「分析」をソリューションの対象を細かく分割し仕分ける作業だとすれば、「設計」はその細かく分けたパーツを整理し、再び「システム」という別の形に組み立てる作業だと思っています。
iwatam流の設計理論を是非書いていただけるとありがたいです。
No.753) リクエストありがとうございます iwatam(Sat Apr 23 02:23:34 2005)
リクエストありがとうございます。しかし、私は仕様分析と設計の間に大きな違いがあるとは思っていません。
使う人の観点でシステムを記述するのが仕様分析であり、作る人の観点でシステムを記述するのが設計であると見ています。
もちろん、観点が違うので、必要な知識には大きな違いがあります。計算量の話やアルゴリズム論、CPUの動作原理といった様々な知識が必要となってくるでしょう。しかしこれはウチのサイトでやるべき話ではないんじゃないかと思っています。
「ソフトウェア開発の落とし穴」の方は、宙ぶらりんになっているのはわかっているのですが、私にとってあれ以上の書きたいことが見つからないので、まだしばらくあのままかもしれません。
No.773) 残念。 紅井林檎(Fri May 13 17:04:47 2005)
お久しぶりです。PCが壊れてしまい、しばらく閲覧しか出来ませんでした。
むー…少し残念です。詳細設計の引出しもちょっとだけ見てみたかったようなきもするのですが…。
でも、実際iwatamさんの言われるとおりなのかもしれません。
仕様については詳細設計レベルでは語られる話ではないのかもしれません。
過去記事はこちらから: [0] [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100] [101] [102] [103] [104] [105]