iwatam's serverのゲストブック 過去ログ

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No.667) 逆模倣? エリー(Thu Mar 17 12:25:38 2005)
 パソコンは「Yes」「No」のどちらかに決めることを求める特定質問をしてくる。リベートや尋問で多用されるやり方。だからトラブルが起きた時、余計に腹が立つ。
 特定質問は日常会話ではなるべく避ける聞き方。会話が続かなくなるし、ケンカになってしまうから。聞きたいなら拡大質問を使う。
 たとえば「ご飯食べた?」と聞かれると「食べた・食べない」しか出てこない。母親が子供に確認する時の口調であり、事実関係を明らかにすることが目的。
 「会話を続けたい」と思っているなら「何か食べましたか?」と「何か」の部分で相手に答える自由を与える聞き方をする。相手が「パン」とか「ごはん」とか「食べてない」と答えてくれれば「相手の状態」が見えてくる。「何で?」と聞き返されれば、「一緒に食べようと思って」とか「リンゴがあるけど食べる?」とか「自分の状態」を答えることになる。
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 しかしコンピューターの場合、相手(ユーザーや同じ回線に接続されているコンピューター)の状態には興味がない。ユーザーがどんな状態にあろうと意味がなく、知る必要がない。使っている人間が発作で倒れても、せいぜい節電のためにスリープモードになるだけ。「どうかしましたか?」とは言わない。通信していたコンピューターとの回線が切れても「回線が切れました」と言うだけ。何故切れてしまったのかには興味がない。「現在接続出来ない」という事実にしか意味を感じない。
 知りたいのは「自分が何をすればいいか」だけ。自分に関する情報しか求めない。
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 iwatamさんのコラム「勝ち組負け組」にある「全て自己評価につながる」も、コラム「なぜ人はセカイ系になるのか」にある「一番と普通しかない」も、そういった「コンピューターが持つ特徴」に似ていると思う。
 私は「無意識世界=見ている世界」だと考えています。人を真似て作られたコンピューターなのに、見ているうちに「コンピューターの振る舞いに似た人間」という逆模倣が起きたのだと思います。
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 本来「パソコンを使う=処理手順を考える」だからそうはならない筈。しかし「見た目の振る舞い」が模倣された場合、そうなるのかもしれない。「内部で処理されていること」を考えず、「特別なこと」がされていると思ってしまう。コラム「技術の結晶」で書かれている問題と同じだと思います。
 若者の意識の二極化も同様に説明がつきます。「処理手順を考える」と理解した人は意識が高く、「全ての処理手順を暗記しなくてはならない」と思ってしまった人は無理だと投げ出す。
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 インターネットが登場するまでは「知識を増やすこと」が勉強でした。それが「処理手順を考えること」が勉強に変わってきた。タイトルを忘れてしまったけれど、そういうコラムもありましたよね?(このHPを知ってから追加されたコラムは拝見しています)
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 「文字サイズの変更」が分かれば、「文字の色を変える」も分かるはず。それを「違う処理」と思い、手順を暗記しようとする。「対象と処理の指示」という共通性が分からない。そして「現実の処理なら分かるのに、パソコン上だとどうしていいのか分からなくなる問題」が起こるのだと思います。
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 私は全ての問題に共通しているのはやはり「何が何と対応しているのか分からないこと」ではないかと思います。それは最近よく耳にする「文脈が分からない」と同じ意味なのでしょうか?
No.680) たいへん遅くなりました iwatam(Sun Apr 3 00:48:27 2005)
「知識を増やすこと」が「処理手順を考えること」に変わったというお話、その通りなのですが時期はもう少し前なのだそうですよ。
詰め込み型教育を見直そうという話は昭和46年ごろから出てきています。そういう教育を受けた人たちが今、社会の主流にあるということだと思います。
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どこかで書いたか書かなかったか忘れてしまいましたが、コンピュータは人間の思考のモデル化です。「思考というのはこうやってやるんだよ」と明確にしてしまったがために、逆にそれから外れたことは考えられなくなってしまうということはよくあることです。「にしこり」がいったん松井選手に見えてしまったらもう文字には見えなくなってしまうように。
これが「逆模倣」なのではないでしょうか。
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それから、「文脈がわからない」というのはまた違う話だと思います。相手がいろいろな話を出してきたときに、何を主張したいためにそういう話を出してきたのかがよくわからないという意味だと思います。
特に何が言いたいわけではない、という場合だってあると思いますが、「文脈がわからない」と言う人はその可能性を想定していないということです。
もちろん、何か言いたいことがあるのに相手に伝わらないこともあるわけで、そういう場合は「文脈がわからない」と言われたら自分自身で何を言いたいのかを整理する必要があるでしょう。
No.681) 関係する範囲が見えてきたきがします エリー(Sun Apr 3 12:17:06 2005)
<教育>
 庶民に生まれれば求めない限り与えられなかった教育が、民主化されて全ての人に開かれました。きっと詰め込み教育で起こる問題は武士階級の間で起きていたのでしょう。それが一般化しただけなのかもしれません。
<逆模倣と記号化>
 「それにしか見えなくなる」という問題は、チャーリー・チャップリンの映画の解説にありました。椅子を椅子としてみない。記号化した情報ともの自身が持っている情報の違いを説明する材料に取り上げられていました。
<文脈>
 どうやら私は文脈という言葉の使い方を間違えていたようです。「説明する文脈を持たない」という文章で知った言葉なので、話す側しか想定していませんでした。聞く側にも「文脈が分からない」という問題が起こるのですね。
 幼児は不安を感じても「私は不安だ」とは言いません。不安という抽象的な感情を知らないから、自分の心に浮かんだことを次々話します。「目を閉じるとお化けがやってくる」はたいてい「新しい幼稚園はどんなだろう?」など不安な気持ちが原因です。
 そうすると「新しい幼稚園はどんなだろう?」を表現する文脈が、「目を閉じるとお化けがやってくる」や「キティちゃんのリュックを早く使いたい」になるのでしょうか?
 話す側の幼児は「私は新しい幼稚園がどんなところか気になるの」と要約することは出来ません。聞く側が「幼稚園に入園する」と知らなければ、バラバラな主張に見えるでしょう。
<演繹と帰納>
 こうして並べて書いてみると、一つの決まりを拡大して現実に対処していくのがコンピューターを使う時の特徴に思えます。演繹的手法ですね。反対に文脈をやり取りするのは帰納的手法です。子供や異国人など共通認識のない「他者」と話す時に必要になります。自然を相手にする時も帰納的手法が求められます。
 決まっていることを教える演繹的手法が「詰め込み式教育」なら、「ゆとり教育」が目指しているのは文脈のやりとりである帰納的手法なのかもしれません。
 英語を習う時にも演繹と帰納に手法が分かれています。単語や文法を教える学校教育が演繹手法なら、英会話では繰り返し話すことで理解します。
 英語を話せるようになりたいと思っても、私は「何を英語で話すか?」で詰まってしまう。「知らない人と日本語でも話さないのに英語でなんて話せない」と思ってしまう。
 「話をする」とか「文脈を理解する」というのは「関心」が問われます。関心は持つか・持たないかです。教えることは出来ないのではないかと思います。
 この問題はiwatamさんが書いた「馬を泉に連れていってやることはできるが、水を飲ませることはできない」と同じだと思うのですが、いかがですか?
No.693) いろいろ返事 iwatam(Thu Apr 7 02:01:15 2005)
まずは文脈の話。
問題の所在がわかりました。抽象的で漠然としたものを文章で相手に伝えなくてはならないとき相手にどのように説明したらよいのか、それが文脈です。とすると、聞く側も話す側も同じ話でしょう。
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「詰め込み教育」に対するものとして「ゆとり教育」がよく言われますが、実はその間に一つ別の方式が混ざっているという話があります。「公式教育」とでも言いましょうか。本当の詰め込み教育は個々の事象を覚えさせるだけです。それに対して、そうした事象は一つの決まりを拡大すればわかると教えるのが「公式教育」です。
英語の例で言えば、単語と例文をひたすら覚えさせるのが詰め込み教育、それに対して文法を教えるのが公式教育、話すことで教えるのがゆとり教育といったところでしょうか。
既存の教育の問題点はそれが受身であったということです。演繹的手法も帰納的手法も単にやり方を見せただけで、子供が実際にやっていないところです。だからこそ、関心がなければやらないという問題が出てきました。
要するに、習得する対象の抽象度が一段上がっているのです。今までは個々の事象を習得させようとしていたのに対して、習得する方法を習得させようとしているということです。習得する方法に演繹的な手法は存在しないので、帰納的な手法を用いているのでしょう。
No.696) なるほど エリー(Fri Apr 8 13:45:13 2005)
 説明を読んで、自分が所属するシナリオ・センターの方針を思い出しました。
 シナリオ・センターでは公式にあたる「シナリオの体裁」を教えてくれます。そして課題を出すことで技術を身につけさせます。その為卒業は在籍期間ではなく、課題を書いた本数です。
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 「シナリオの技術」は抽象的です。具体化すると「個々によって違う」としか言い様がない部分が多い。その「個々のやり方」を身につけさせる為に課題を書きます。
 書かずに「教えてあげます」なんてところはあやしいので、方針に引かれてシナリオ・センターを選びました。その判断は間違っていなかったと思います。
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 だたシナリオ・センターのやり方が「ゆとり教育」の一つの形だとすると、「シナリオの技術」などに限定されない「習得する方法を習得させること」は一層難しいのではないかと思われます。
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 「シナリオ」という文脈を理解するには、「シナリオを書く」以外にありません。では「習得する方法」という文脈を理解するには、何をすればいいのでしょう? 私には分かりません。結局、何か一つに限定するしかない気がします。限定しないから「やり方を見ただけで実際にやっていない」という問題が起きるのかもしれません。
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 初めの話に戻ります。
 コンピューターを使って何かを作る場合、まだこの世に存在しない完成品は抽象的な存在です。それを具象化するためには含まれる要素に分解する必要があります。「文字」「静止画」「動画」「音」など要素を統合して一つの形にまとめます。
 つまり「完成品」というキーワードから「文字」「静止画」「動画」「音」という枝葉につながる演繹手法で始まり、部品として完成した「文字」「静止画」「動画」「音」をまとめて「完成品」を作る帰納的手法で終わる。
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 途中の例を上げるなら「話し手(質問者)=演繹手法」で「聞き手(回答者)=帰納的手法」となる。どちらも出来て初めて「文脈を持っている」と言えるのかもしれません。
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 コンピューターは質問者にはなれても、回答者にはなれません。だから「どうかしましたか?」という聞き手になれない状態を「コンピューターに似ている」と感じたのかもしれません。
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 疑問が解けてスッキリしました。ありがとう。
No.663) 面白いテストでした。 花鶏(Tue Mar 15 10:23:04 2005)
はじめまして。
Mary Sueテストをさせていただいた所、28点でした。
こういったテストでは少なくとも半分くらいはとれると自負していたのでちょっとアリャリャと思いました。
もっと頑張ろうと思います。
No.665) はじめまして iwatam(Wed Mar 16 00:15:09 2005)
がんばってください。
No.661) 雨戸[HOME](Sun Mar 13 19:03:41 2005)
初めまして。キャラ作りにあたり参考にさせていただきました。主人公はテストで18点でした。
No.664) はじめまして iwatam(Wed Mar 16 00:14:05 2005)
いらっしゃいませ。これからもがんばってください。
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